『仏道人生の事実から目をそらさない生き方』

仏教をお開きになったお釈迦さまが、出家をするに至る大きなきっかけとなったエピソードとして、

「四門出遊(しもんしゅつゆう)」

というお話があります。

お釈迦さまの生活は、シャカ族の王子として何不自由のない環境が与えられていました。

しかしある時、城下の人々の様子をうかがおうと、おつきの家来を連れてまず東の門から出られた時のことです。

ほどなくして、よたよたと杖をついて歩く一人の老人の姿が目に飛び込んできました。

すかさずおつきの家来にこう尋ねられます。

太子問う、

「何を謂いてか老と為す」

従者答う、

「此人、昔、嬰児、童子、少年を経たるも、遷謝して止らず。

遂に根熟するに至り、形変じて色衰え、飲食消せず、

気力虚微、坐起に苦極し、余命幾ばくもなし。

故に謂て老人と為す」

太子問う、

「唯、此の人のみ老なりや、一切皆然るや」

従者答う、

「一切皆、悉くかくの如くなるべし」

お釈迦さまはこの年老いた人をご覧になり、そうおつきの家来と言葉を交わし、大きな苦悩を抱きながらお城へと帰っていかれました。

またある時、今度は南の門から出られた時、病に苦しみ横たわっている病人の姿に出会い、西の門からは、亡くなった死者を運ぶ葬列に出会い、最後、北の門から出られた時、穏やかな顔で歩く出家した修行者に出会われたそうです。

この

「四門出遊」

と言われる様々な場面を通じてお釈迦さまは、人間のいのちとは、生きるとは、死ぬとは、喜びとは、多くの葛藤と感情がお釈迦様の心を大きく動かし、29歳の時に出家の決心をされ、全ての環境、王子という位を投げ捨ててお城を出られるのです。

何不自由のない生活が約束されていたとしても、どんなに目先の楽しみを追い求めても、老いて、病にかかり、そしてやがては全てを置いて死んでいかなければならないという、

決して逃れることのできない老、病、死の実体は、現代に生きる私たちもまた誰もがその苦しみを抱えながら生きているのではないでしょうか。

このお釈迦さまの苦悩こそ仏教の出発点であり、この事実と共にどのように生きるのかが仏道でありましょう。

「仏法を聞くと、死の話になるから嫌だ」

という声を聞いたりします。

確かに死の話は楽しいものではありませんし、できれば避けて通りたいものです。

しかし、

「死」

を無視して、死に目をつぶって生きることは、

「本当の意味での生きることではない」

とお釈迦さまは仰います。

親鸞さまは

「後生の一大事」

と仰います。

欲望や執着に目が向いている間はなかなかそのことに気付きませんが、この人生の事実を

「問い」

として生きるところに、かけがえのない仏道が開かれているような気がいたします。

仏教は、

「生老病死」

を避けるのではなく、その事実をしっかり正しく見据えるところから始まります。