「ここを去ること遠からず(観経)」(中旬)全身の毛穴が立ち、身が感動に打ち震えた

「称名念仏」

というお言葉を初めて使われたのは善導さまというお方です。

合掌して念仏を称える。

浄土真宗では、信心は正因、称名は報恩の行であると申します。

大悲の親・阿弥陀如来が私のところに来てくださり、私の体を通して、南無阿弥陀仏と顕現した。

それが浄土真宗の本願のお念仏ということです。

善導さまは41年間、寝食を忘れて道を求めたと言われます。

しかし迷いの凡夫罪悪の世界ゆえ、尊いものが自然と展開する道理がない。

求めても求めても真実の道は開きませんでした。

あるときのこと、無数のお経さまが収められている大蔵経へ籠もりまして、目隠しをして三世の諸仏に請いながら、

「悟りの因縁となる一冊の聖教を授けさまえ」

と、数多のお経さまの中を手さぐりで探しました。

やがて、これだという聖教を一冊つかみ出して、これで悟りを得るまで読ませてもらいましょうと取り出さそして『仏説観無量寿経』を読まれた善導さまでしたが、読んでも読んでも安らぎは得られず、悟りも開けない。

やがて、何度読んでも分からなかったので、机の上にお経の巻物を置きました。

そして、左右に置かれたお経を何の気なしに眺めたそこに

「光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨」

という御文が書かれていました。

この御文に遇うたとき、善導さまは全身の毛穴が立ち、身が感動に打ち震えたといいます。

「光明遍照十方世界」

これは、如来の光は私の外側から照らしているというのではなく、如来の光明は真っ暗がりの我が胸の中へ差し込んでくだされたのだと善導さまは頂かれました。

そして

「念仏衆生摂取不捨」

これは、何かを会得したとか、信じたとか、理解したとかそういうことてせはありません。

久遠実成、永遠の過去から仏としてはたらき続けてくださる大悲の親さま・阿弥陀如来が十劫の時間空間を超えて、我らの世界へ顕現したのが南無阿弥陀仏です。

この阿弥陀仏はあなたを抱きとってやりたいぞとはたらき続けていてくださいます。

それは私から見れば、私を喚び通しの親がここにおったということです。

私を愛してやまない親さまのまことの喚び声が胸に至り届いてくださったのが

「念仏衆生摂取不捨」

ということです。

念仏は、仏さまの喚び声です。

それが、私ま中へ届くことで、私の心に安らぎの世界を頂ける。

私とともにあり、心の中にはたらき続けてくださる大悲の親さま、そのことに目覚めさせていただくところに、人に生まれてよかった、1人ではなかったという幸せがあるのです。