「ここを去ること遠からず(観経)」(下旬)ゴリラでさえも1日を感謝して、手を合わせている

昭和34(1959)年4月、全国小学校作文コンクールで一等賞になったある作文がありました。

新潟県燕市の燕小学校6年生、品川ツトム君が書いたその作文は

「恩」

という題名でした。

昭和34(1959)年4月、燕小学校の生徒が修学旅行で関東に行くことになりました。

担任の先生が参加希望者の数を数えると、1人だけ手を挙げたり下げたりする子がいました。

先生が注意したその子が品川ツトム君でした。

涙を浮かべて謝るツトム君に、先生は家庭の事情を察し、一晩お母さんと相談して翌日返事をするようにと優しく諭しました。

ツトム君の家は、母1人子1人で、生活保護をもらって何とか暮らしている状態でした。

ツトム君のお母さんは、町外れの工場に勤め、毎日疲れ果てながらも息子の成長を楽しみにして、きつい肉体労働に従事していました。

その日家に帰ってきますと、いつもは元気よく出迎えてくれるツトム君が、奥の仏間で1人父親の写真に向って手を合わせて泣いていました。

泣いているツトム君を心配して理由を尋ねるお母さんに、ツトム君は学校での出来事を話しました。

旅行に行きたい。

しかし、今の家の状態ではそれも出来ない。

お父さんさえいてくれたら。

お父さんが恋しい、寂しいと涙を流して訴えかけました。

お母さんはそんなツトム君を何とかして旅行に行かしてやりたいと、万が一にと貯めた5・6枚の千円札を渡しました。

ツトム君は、お父さんがいないと不平を言った自分に、こんな尊い母を恵まれたことは何という幸せかと有り難さをかみしめ、関東への旅行に行きました。

旅先の東京上野動物園でツトム君が見たのは、朝日夕日に向って拝むゴリラの姿でした。

その姿に、ゴリラでさえも1日をこんなに感謝して手を合わせて生きている。

人に生まれたこの身が、昨日も今日も不平不満で日を送ったとは、なんという愚か者であったやらと、涙に綴られた作文が

「恩」

という作文でした。

この話を通して、私たち自身を振り返ってみるとどうでしょうか。

毎日が恵まれた環境でありながら、不平不満で日々を送り、感謝の念を忘れています。

大悲の親・阿弥陀如来は、今このとき、十劫の時間空間を超えて、我らが世界へ立ち顕れてそのおこころを

「去此不遠」

すなわち、阿弥陀如来

「ここをさること遠からず」

と説いておられます。

どこにましますかというと、それは道を求める心、法を求める心、悩み苦しみに泣きぬれている我が心。

私の外側ではなく、私の心のその中に、やるせない親の願心として来てくださいます。

この身が、罪悪と煩悩の暗闇を抱える私だからこそ、永劫のご苦労を果たされた大悲の親さまが、今、私の世界の中に来てくださり、共に歩んでくださるのです。

その幸せの中で手を合わせて生かさせていただくのが、ご当流、浄土真宗のお称名念仏だと頂戴させていただきます。