「教」を中心として、阿弥陀仏と釈迦仏の願い、大悲の躍動を求めるならば、ただ一方的に仏から衆生へのはたらきのみとなります。
末法時代の仏法には、この
「教」のみしか存在しないのですから、
「教」が衆生に対してはたらくということは、末法時代における仏教の行道は、行道自体が逆の方向においてのみ成り立つということを意味しています。
すなわち、末法時代における仏と衆生の関係は、衆生から仏へ救いを求めて願いをかけるのではありません。
また、衆生が仏に対しその仏を念じ名を称するのでもなく、衆生が仏の方向に向かって行道するのでもありません。
全く逆であって、仏がただ一方的に衆生の救済を願われるのです。
それは、仏が衆生に対して、一心に自らの大悲が衆生によって信じられることを念じ、名号を通して
「我が仏国土に来たれ!」
と呼びかけてくださるということです。
まさに、仏が衆生の方向に至り来たって、あたかも
「逃ぐる者を追わえとる」かのように
「摂取(救済)」してくださるのです。
これが
「教」のみしかない、末法時代の仏教の真相だといえます。
そうすると
「念仏」の意義もまた、それまでとは逆になります。
末法の世の念仏とは、仏からの願いであり、言葉であり、はたらきであり、行業です。
ここに念仏について、異質の二種の行法が顕かになります。
一は、衆生が仏を念ずるという立場の念仏義です。
この場合の念仏は、衆生の行として、凡夫から仏果へという行道を意味します。
二は、仏が衆生を念ずるという立場の念仏義です。
この場合の念仏は、念仏が救いの法として凡夫のもとに来たるというもので、仏から衆生へ、仏の教えがそのまま仏行となって衆生にはたらいていることを意味します。
末法時代の念仏は、言うまでもなくただ第二の場においてのみ意義があるのであって、救いの法として、一切衆生を救うために念仏が仏の行となってあらわれ来っているのです。
しかもこの念仏行においてのみ、
「行」なき末法時代に、真の仏道としての行が成り立ち、同時に凡愚の証果への道が開かれます。
この点を親鸞聖人は『教行信証』の結びで
「聖道の諸教は行証久しく廃れ浄土の真宗は証道今盛りなり」
と述べて、ここに今までの仏教には見ることの出来なかった、阿弥陀仏の本願の
「行」という、全く新しい行道を展開されることになります。
そして、この行道、すなわち阿弥陀仏の救済の法としての念仏を、親鸞聖人は
「大行」と名付けられます。
ここにおいて『無量寿経』の生因三願の意義は、それまでと逆転することになります。
従来のように、衆生から仏へという行道の方向で生因三願の
「行」を見る限り、第十八願の行道は劣悪愚鈍なる者に対して開かれている道であるため、第十九・二十の両願に比べると決して優れているとは言えないばかりか、行者(例えば聖道の諸師)の目から見ると、第十八願そのものが価値の低い願だと受けとられていました。
たしかに、たとえどのような劣悪な者を救済するという弥陀の大悲、弘願意が示されているとしても、第十八願は決して他の二願に対して、超越した願とはなっていません。
しかも愚鈍なる念仏者とは、自身の心に次のような二種のはからいを抱く者でしかありません。
一は、果たして自分のように愚悪なる者でも、弥陀は救ってくださるのかというはからいであり、二は、自分はこのように一心に念仏に励んでいるのだから、救われて当然であるというはからいです。