「音楽のキセキ」(中旬)歌詞の意味は全く分からないのに心を揺さぶられた

そして『篤姫』の作曲をすることになりました。

それは良かったのですが、1度に50〜60曲も書かないといけないのは本当に辛かったです。

東京で1人で作っていたら行き詰まってしまい、気分を変えるために、鹿児島に来ました。

桜島でも見ながら作曲しようと思い、当時の東急ホテルに楽器を持ち込んで、1人ホテルに籠もって書いていたんです。

あるとき、ホテルのベランダでCDを聴いていました。

朝崎郁江さんという歌手の島唄です。

それ聴いてをいたら、涙が止まらなくなったんです。

歌詞の意味は全く分からないのに心を揺さぶられました。

すごいと思いました。

それでできたのが『篤姫』の「良し」という曲です。

とても苦しかったのに、この人の曲を聴いていたら10分ほどでインイピレーションをもらったんだと思います。

この「良し」という曲については、実は、篤姫が鶴丸城から出ていくときに、朝崎さんの歌で送り出してもらいたいと思っていたんです。

それで、東京でやっていた朝崎さんのライブに行きました。

そこで朝崎さん唄について説明してくれました。

すると

「奄美は薩摩に虐げられ、書物を全部焼かれ、私たちが口で伝えなければいけないことがたくさんあるんです」

と言われたんです。

篤姫は薩摩の物語なので、これは頼めないと思い、何も言わずに帰りました。

その後、『篤姫』に関連してNHKが朝崎さんを取材したんです。

僕は、朝崎さんは薩摩が嫌いなんだと思い込んでいたんですが、朝崎さんはとても喜んで下さったそうです。

びっくりしました。

それから僕と朝崎さんは、とても仲がいいんです。

朝崎さんが歌うところには、必ず僕がいるというくらい一緒に仕事しています。

朝崎さんは今年で78歳。

だから余生は僕とずっと一緒にやりましょう、辞めるときは僕の手が動かなくなるか、朝崎さんの声が出なくなるかのどっちかですねと言っています。

それもやっぱりご縁だと思います。

ホテルでふと聴いた朝崎さんのCDから「良し」ができて、そこから朝崎さんと仲良くなって、今では大好きなアーティストと一緒に演奏することができている。

ものすごく楽しいです。

やっぱり人生は何が起こるかわからないと感じましたね。

『篤姫』やってよかったなと思います。

音楽を目指してもおらず、ピアノが大嫌いだった僕がプロになり、サントラ業界に入ったのは38歳でした。

それから10年の間に朝ドラと大河ドラマをやったわけです。

僕が出会ってきたいろんな人たちの誰か1人でも欠けていたら今の自分はいない。

そう思うと、超越した何かに、君はこの人と出会いなさいと導かれているように思います。

口に出して言って、そこに誰かとの縁ができて、誰かが自分のことを見ていてくれて、結局そういう風になるんだなとつくづく思います。