おじちゃんのお月見セット

9月19日は十五夜でしたね。

今年の十五夜には、きれいな満月が夜空に浮かび上がっていました。

多くの方が、満月に見入っておられたのではないかと思います。

事実、Facebookには多くの友人の撮った満月の写真がアップされていました。

実は、ほんの少し前まで十五夜=満月だと思っていました。

でも違うんですね。

十五夜は、旧暦の8月15日のことで、満月とは何ら関係がないんだとか。

たまたま、十五夜と満月が一緒の日になっただけで、次に十五夜に満月が見られるのは8年後!!そして十五夜には、秋の収穫を感謝するという意味があると!!

本当に恥ずかしいことです・・・

そんなことも知らずに、毎年月を眺めながらお団子を食べていたとは(>_<) 昨年まで、十五夜の日には必ず、ご門徒の方がすすき・お団子・栗・さつまいものお月見セットを持ってきてくださっていました。毎年、必ず。 その方が、お月見セットを持って来られると、 「あ!今日が十五夜なんだ」 と知らされるくらい、毎年。 しかし今年は、その方からお月見セットを頂くことはありませんでした。 昨年は、私の家族全員が外出している時に、その方が来られたようで、玄関先にお月見セットが置かれていました。 毎年のことだったので、 「今年も持ってきてくださったんだね」 と家族みんながピンときて、お礼の電話をしました。 ご夫婦で、よくお寺にお参りをされ、私も幼いころから 「おじちゃん」 と呼んで、親しくさせていただいていた方でした。 「おじちゃん、お月見セットありがとうございます。今年も縁側に飾って、お月見しますね〜。」 とお礼を申したその後、その方から返ってきた言葉が 「来年は持っていけないと思うから。」 というものでした。 以前より、その方が病気を患っていることは知っていましたが 「来年は持っていけないと思う」 状態であることを初めて知らされました。 常々「無常」ということを聞かせていただいているのに、私たちは 「またあとで」 「また明日」 と、よく使ってしまいます。 いつ終わってしまってもおかしくない 「いのち」なのに。 知らず知らずのうちに 「私のいのちは、まだまだある!まだ終わるはずがない!」 と思っていたことを知らされました。 その方の言われた通り、今年の十五夜にその方からお月見セットを頂くことはありませんでした。 初夏の、辛く悲しい別れでした。 今年の十五夜に、すすき・栗・さつまいもを縁側に飾ることはありませんでしたが、お団子だけは自分で作りました。 そしてお団子を頂きながら、月を見ながら、家族で話すことは 「おじちゃん」のことでした。 今後、何度十五夜を迎えられるかわかりません。 もしかしたら、私自身が来年の十五夜を迎えられないかもしれない。 でも、もし今後十五夜を迎えることができるのならば、きっと毎年 「おじちゃん」のことを思い出すんだろうな・・・と思った、十五夜の夜でした。 おじちゃん、ありがとうございました。

【確認事項】このページは、鹿児島教区の若手僧侶が「日頃考えていることやご門徒の方々にお伝えしたいことを発表する場がほしい」との要望を受けて鹿児島教区懇談会が提供しているスペースです。したがって、掲載内容がそのまま鹿児島教区懇談会の総意ではないことを付記しておきます。