この俳句の中の「椿」とは、まさに私のことを物語っているのではないかと思われます。
けれども、この句の光景を自然界の現象として思い浮かべることはできても、落ちていく椿が自分をたとえていると言われて、その言葉にすぐに頷くことは難しいかもしれません。
なぜなら多くの人は、自分のいのちが終わって、もし「落ちる(堕ちる)世界」があるとするなら、その行く先は漠然と「地獄」だと考えているからです。
そして、少なくとも自分や知人は「昇ることはあっても落ちることはない」と考えているように思われます。
そのことを裏付けるかのように、例えばテレビで亡くなられた方のことが話題になる場合、「○○さんは、今頃は天国で…」と言う人はいますが、「今頃は地獄で…」と言う人は見かけません。
また、周囲で少しお念仏のみ教えにご縁のある方であれば、「今頃はお浄土で…」と口にされます。
このように、大半の人はいのちが終わったら「昇っていく」とか、「(西方浄土に)往生する」と考えてはいても、決して「落ちる(堕ちる)」とは思っておられないように窺われます。
ところが、浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、『歎異抄』の伝えるところでは「いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし」と、「自分の赴くのは地獄しかない」と仰っておられます。
親鸞聖人は、なぜそのようなことを言われたのでしょうか。
また、親鸞聖人が言われる「地獄」とは、いったいどのような世界なのでしょうか。
『諸経要集』によれば、「地獄」の「地」について「地とは底なり、いわく下底」とあります。
このことから「地」というのは、私たちのいのちのもっとも深い底、存在のもっとも根底という意味であることが知られます。
次に「獄」という言葉には、「拘曲」という意味があるいわれています。
「拘」というのは「拘置する」ということで、具体的には「引き止められる」「縛りつけられる」ということです。
また「曲」は「局限」で、一つの状態におしこめられることです。
このことから「獄」というのは、「一つの状態に押し込められ、そこに縛りつけられている」という意味であることが知られます。
このようなことから、「地獄」はまた「自在を得ず」といわれます。
「自在を得ず」というのは、
・自由気ままに生きることを願う私の心を、いちばん深いところから縛りつけている。
・夢をかなえて幸せになりたいという私を、そうではないこのような現実のあり方に縛りつけている。
そういうこの身の事実を表す言葉が、「地獄」という言葉で言い表れさていることを物語っています。
一般に「地獄」というと、どこかにそのような場所があるかのように思われてしまうことから、現代の理性によっては「荒唐無稽なこと、無意味なこと」と見なされてしまう面もあるのですが、『往生要集』の中で源信僧都がよりどころとしておられる『正法念処経』の中に「汝は地獄の縛を畏るるも、これはこれ汝の舎宅なり」とあります。
つまり「地獄」というのはどこか未来の遠いところにある世界ではなく、この私が現に生きているこの場だと説かれているのです。
この「舎宅」というのは、私の具体的な生活の場、私が具体的に生きていくときの場所です。
そして、このことをもっと自覚的な言葉で言い切られたのが、まさに親鸞聖人の「地獄は一定すみかぞかし」という言葉だと言えます。
したがって「地獄」といは、どこかにあるだろうということではなく、私というものの本当の相を根底から掘り起こしていくところに出会うものだということになります。
私たちは毎日の生活の中で「幸せになりたい」と願い、いのちが終わった後は漠然と「天国」、あるいは仏教徒であれば「(極楽)浄土」に生まれたいと思っています。
この場合、言葉の表現は違っていても、死後に期待されている世界は、共に「悩みや悲しみや憂いがなく、美しくて楽しみに満ちた安らぎの世界」といったような内容が思い描かれています。
ところが、「浄土」というのは親鸞聖人の言葉で言えば、この現実においては「地獄一定」ということになります。
ともすれば、私たちは「地獄」が恐ろしくて「浄土」を求めるということになるのですが、「地獄」というのは、『正法念処経』に明かされるように、私の絶対現実そのものです。
その現実において、私たちは、どうなれば自分が本当に満足できるのか、自分が本当に求めているものは何なのかが分からないままに、自分の思いというものに閉じこもってしまっています。
これが「迷い」の相ということになるのですが、そのような私に対して開かれているのが、まさに「浄土」の教えなのです。
経典に説かれているように、「地獄」というものが私の絶対現実であるとすれば、それは私の力によってはどうにも動かしようがありません。
この苦悩の現実からどれほど逃れたいと思っても、その現実に私を縛りつけている事実が「地獄」という言葉で語られる絶対現実なのですから、まさに「地獄一定」こそ私の身の事実と頷く他ないのです。
そして、その私は「浄土」の光に遇うことにおいて、初めて地獄の縛を離れることができるのです。
それは、身体的にということではなく、「地獄の縛」という言葉で象徴的に説かれる自身への執着心が破られるということです。
端的には「浄土」に目覚めることによって、「自在を得ず」と説かれる「地獄」の絶対現実の中にあっても、「自在」に生きていける私になるということです。
それは、また「地獄一定」と頷いて生きていける、そういう確かな事実に出遇ったということです。
このような意味で、「浄土」とはこの私に「地獄一定」の人生を力強く歩ましめる根拠であり、確かな依りどころだといえます。
したがって、「浄土」とはどこまでも足下に開かれてある大地であって、これから探してそこに行かなくてはならないという目的地ではありません。
まさに、私を受け止める大地(浄土)があるからこそ、私たちは「地獄一定」と言われるような絶対現実を悠々と生きていけるのだと言えます。