暗黒の大蔵の中から光のなかへ、何ものかを自分はつかんで出たと信じた。
五ヵ月ぶりで一切(いっさい)経(きょう)の中から世間へ出た時の範(はん)宴(えん)のよろこびは、大きな知識と開悟とに満たされて、肋骨(あばらぼね)のふくらむほどであった。
(もう何ものにも迷うまい)彼は、信念した。
(もう何ものにも挫(くじ)けまい)彼は足を踏みしめた。
そして心ひそかに、
我この世を救わん
の釈尊の信願をもって自分の信願とし、雪の比叡(ひえい)へ三度目にのぼったのである。
仏祖釈迦如来は、大悟の眼をひらいて雪山(せっせん)を下りたという。
彼は、新しい知識に信をかためて伝統の法城へ勇躍してのぼってゆく。
どのくらいな心力と体力のあるものか、範宴は、不死身のように死ななかった。
骨と皮ばかりになって、しかも、麓(ふもと)の道さえ塞(とざ)された雪の日に、
「範宴じゃ、今帰った――」と、一乗院の玄関へふいに立った彼のすがたを迎えて、覚(かく)明(みょう)も性(しょう)善坊(ぜんぼう)も、
「あっ……」と驚いたほどであった。
休養というような日はそれからも範宴には一日もなかった。
おそろしい金剛心である。
彼はその冬を華厳経(けごんきょう)の研究の中に没頭して、覚明や性善坊と、炉辺に手をかざして話に耽(ふけ)ることすらない。
そうした範宴の日々の生活をながめて、覚明はある時、しみじみと、
「命がけということは、武士の仕事ばかりと思うていたが、どうして、一人の凡人が、一人の僧といわれるまでには、戦い以上な血みどろなものじゃ」
と、心(しん)から頭を下げていうのであった。
翌年の五月の下旬であった。
難波(なにわ)から京都の附近一帯にわたって、めずらしい大風がふいて、ちょうど、五月雨(さみだれ)あげくなので、河水は都へあふれ、難波あたりは高潮が陸(おか)へあがって、無数の民(みん)戸(こ)が海へさらわれてしまった。
そういう後には必ず旱(ひでり)がつづくもので、疫病が流行りだすと、たちまち、部落も駅(うまや)路(じ)も、病人のうめきにみちてしまった。
都は最もひどかった。
官では、施(せ)薬院(やくいん)をひらいて、薬師(くすし)だの上達部(かんだちべ)だのが、薬を施(ほどこ)したり、また諸寺院で悪病神を追い退ける祈祷(きとう)などをして、民戸の各戸口へ、赤い護符(ごふ)などを貼(は)りつけてしまったけれど、旱(ひでり)にこぼれ雨ほどのききめもない。
犬さえ骨ばかりになって、ひょろひょろあるいている。
町には、行路病者の死骸が、乾物みたいにからからになって捨てられてあったり、まだ息のある病人の着物を剥いで盗んでゆく非道な人間だのが横行していた。
突然、召状(めしじょう)があって、範宴は叡山(えいざん)を下り、御所へ行くあいだの辻々で、そういう酸鼻(さんび)なものを、いくつも目撃した。
(ああ、たれかこの苦患(くげん)を救うべき)若い範宴のちかいは、心の底にたぎってきた。
※「一切経(いっさいきょう)」=仏教で、経蔵・律蔵・論蔵の三蔵、七千余巻の経文の全部。大蔵(だいぞう)経(きょう)。
※「雪山(せっせん)」=ヒマラヤ山脈の異称。「せん」は「山」の呉音。
※「華厳経(けごんきょう)」=さとりを開いたシャカムニの最初の説法をしるした経。
※「上達部(かんだちべ)」=三位(さんみ)以上の大臣や大・中納言、四位の参議などの殿(てん)上人(じょうびと)。公(く)卿(ぎょう)。かんだちめとも。