親鸞・去来篇 2013年2月16日

新しい力が興(おこ)ろうとする時には必ず古いものの力がこぞってそれを誹謗(ひぼう)してくる。

「範宴の講義を聴いたか」一山の者の眼は、彼の声にその新しい力を感じて不安に駆られた。

「どんなことをいうのか」

「まあ、いちど行ってみろ」禿(かむろ)谷(だに)の講堂は、一日ごとに大衆で埋(うず)まった。

法(ほう)筵(えん)にすわれない人々は講堂の縁だの窓の外に立って彼の声だけを聞いていた。

彼の講義が熱をおびるほど、大衆も熱し、そして、内心深く考え直して衝(う)たれているものと、範宴に対して飽くまでも闘争的に反感をいだいている者とが、はっきりと分かれていた。

むろん彼に帰依(きえ)する者よりは、彼を嫉視(しっし)し、彼を憎悪する者のほうが遥かに多い。

その険悪な大勢の顔からは、殺気が立ちのぼっていて、講義の要点にすすむと、

「邪説っ、邪説っ」と、どなったり、

「奇を衒(てら)うなっ」と弥次(やじ)ったりして、時には、立って講壇へ迫ろうとするような乱暴者があったりした。

そして範宴の帰りは、いつも薄暮(はくぼ)になるので、性善坊は師の一身を案じて、

「どうか、はやくご講義を切り上げて下さるように」と、頼むようにいった。

範宴はうなずいたが、やがて、小止観(しょうしかん)の講義が終ると、すぐ続いて、往生(おうじょう)要集(ようしゅう)の解(かい)をあたらしく始めた。

「困ったことだ」

性善坊は大不服である。

「講義が大事か、お体が大事か、それくらいなことは、お分りと存じますに、毎日、危険をおかしてまで、禿(かむろ)谷(だに)へお出かけになるのはいかがかと存じます。ことに、一山の大部分のものは、日にまして、師の房を悪(あ)しざまに沙汰するのみか、伝教(でんぎょう)以来の法文を自分一個の見解でふみにじる学匪(がくひ)だとさえ罵っているではございませぬか。このうえ講義をおつづけになることは、火に油をそそいでみずから焔に苦しむようなものだと私は思いますが」

口を極めて苦諫(くかん)するのであった。

けれど範宴は、

「初めの約束もあるから――」というのみで、彼を叱って説伏しようともしない代りに、思いとまって講義をやめる様子もない。

ただこの際、性善坊にとって心づよいことは、新しく弟子となった太夫房(たゆうぼう)覚(かく)明(みょう)が、範宴の身を守ることは自分の使命であるかのように、範宴のそばに付いて、見張っていてくれることであった。

そのためか、往生要集の解(かい)も、無事にすんで、範宴は、翌年の夏までを一乗院の奥に送っていたが、やがて秋の静かな跫音(あしおと)を聞くと、

「興福寺へ行ってまいる」と、性善坊も覚明もつれずに、ただ一人で、雲のふところを下りて、奈良へ行った。

彼の念願は、興福寺の経蔵(きょうぞう)のうちにあった。

許しをうけて、その大蔵(だいぞう)の暗闇にはいった範宴は、日も見ず、月も仰がず、一穂(いっすい)の燈(とも)し灯(び)をそばにおいて、大部な一切(いっさい)経(きょう)に眼をさらし始めたのである。

ふつうの人間の精力では五年かかっても到底読みつくせないといわれている一切経を、範宴は五ヵ月ばかりで読破してしまった。

おそらく眼で読んだのではあるまい、心で読んだのだ、そして充血して赤く爛(ただ)れた眼と、陽にあたらないために蝋のように青白くなった顔をもって、大蔵(だいぞう)の闇から彼がこの世へ出たきた時には、世は木枯(こがら)しのふきすさぶ建(けん)久(きゅう)七年の真冬になっていた。