炉辺の夜がたりは尽きない。
覚明は昼間、範宴の講義を聴いた時から、
(これは凡僧でない)とふかく心を囚(とら)われていたが、さらに一夜を語り明かしてから、(この人こそ、虚無と紛乱(ふんらん)と暗黒の巷(ちまた)にまよう現世界の明しとなる大先覚ではなかろうか)という気がした。
で、あくる日あらためて覚明は範宴のまえに出た。
「お願いがござるが」
範宴はやわらかい眼ざしを向ける。この処女(おとめ)のような眸のどこにきのう講堂で吐いたような大胆な、そして強い信念がかくされているのかの覚明はあやしくさえ思う。
「拙者を、今日から、御弟子(みでし)の端に加えていただきたいのですが――」
「弟子に」
「されば」覚明は力をこめていった。
「今日までの自分というものは、昨夜も申しあげたとおり、武辺(ぶへん)の敗亡者であり、生きる信念を欠いた自己のもてあましたものでありましたが、もういちど、人間として真に生き直ってみたいのでござる。おききどけ下さらば、覚明は、今日をもって、誕生の一歳とおもい、お師の驥尾(きび)に附いて、大願の道へあゆみたいと存ずるのでござる」
「あなたは、すでに、勧学院の文章(もんじょう)博士(はかせ)とし、学識も世事の体験も、この範宴よりは遥かに積まれている先輩です。――私がおそるるのはその学問です。あなた、今までのすべてを――学問も智慧も武力も――一切かなぐりすてて、まこと今日誕生した一歳の嬰児(あかご)となることができますかの」
「できる。――できるつもりです」
「それをお誓いあるならば、不肖(ふしょう)ですが、範宴は、一歳のあなたよりは、何歳かの長上ですからお導きいたしてもよいが」
「どうぞ、おねがいいたします」覚明は誓った。
かつて、木曾義仲にくみして、矢をむけた時の平家追討の返翰(へんかん)に、
――清盛は平家の塵芥(じんかい)、武家の糟糠(そうこう)なり。
と罵倒(ばとう)して気を吐いた快男児覚(かく)明(みょう)も、そうして、次の日からは、半僧半俗のすがたをすてて、誕生一歳の仏徒となり、性善坊に対しても、
(兄弟子)と、よんで、侍(かしず)く身になった。
覚明ひとりではない。
時勢は、源頼朝(よりとも)の赫々(かつかく)たる偉業を迎えながら、一方には、その成功者以上の敗亡者を社会から追いだしていた。
壇(だん)の浦を墓場とした平家の一族門葉もそうである。
それを討つに先駆した木曾の郎党も没落し、また、あの華やかな勲功を持った義経(よしつね)すらが、またたくまに帷幕(いばく)の人々と共に剿滅(そうめつ)されて、社会の表からその影を失ってしまった。
だが――亡びた者、必ずしも死者ではない。
生きとし生けるものの慣(なら)いとして、生き得る限りはどこかに生きようとしているのである。
平家の残党、木曾の残党、義経の残党、その一門係累(けいるい)はことごとく世間にすがたは消していても、どこかで呼吸し、何かの容(かたち)で、更生にもがいている。
太夫(たゆう)坊(ぼう)覚明も、そういう中の一人なのである。