私の場合、手術するまで1カ月かかるんですが、つらかったのは絶食でした。
私、声を大にして言いたい。
なるべくなら絶食を告げに来る看護婦さん、やせた人に来て欲しいですな。
その時にできました私の一句、
『絶食を告げるナースの丸い顔』。
二十四時間点滴で、死なん程度のカロリーは頂いてるんです。
そやけど人間はやっぱり口で食べて生きるもんやなと実感しました。
手術の日です。
家内が子ども、当時小学校三年生の息子と二年生の娘でしたが、ふたりを連れて病室へ来てくれました。
娘が私に聞きます。
「おとうちゃん、痛い?」
「入院したからもう痛みは大丈夫やけど、おとうちゃん手術せなあかんねん」
「えっ?手術すんの?おとうちゃん、死なんといてや」
「ちっちゃいお前ら残して死にたない、頑張るわ」。
息子が振り絞るような声で、
「おとうさん、頑張ってや」。
ストレッチャーに乗せられて手術室へ向うんですが、ガラガラと押されていく後ろから子どもがおとうちゃんて呼ぶから、パッと振り返ったら、ふたりが
「おとうちゃん、頑張って」。
勝利のVサインですわ。
「おとうちゃん頑張るぞ」
言うて手術室へ向うんですが、いくら本人頑張るつもりでも頑張りようがないですよね。
もう手術室へと向ったらまな板の鯉ですから、あとはもう鯉になった以上は板長にお任せするほかないんです。
ええ板長やったらええのになと思いながら手術室へと向いました。
九時間におよぶ大手術やったそうです。
一時間二時間で手術室から出てきたらもう命はないものと、余命も何週間とか思てくれと医者に言われてたそうです。
兄は好きなタバコを五時間も六時間も吸わないで見て待ってくれた。
家族って、兄弟ってええな、血のつながりってええもんやなって思いましたね。
泣きの涙で何日も泣き過ごす毎日ではありましたが、真っ暗闇な心の中で、何か針の穴ほどでも明かりはないやろか、光はないやろかといろんなことを考えました。
子どもがそこそこまで育ってくれる時間が欲しい。
自分がこの世の中から死んでしまう、消えて無くなってしまう寂しさよりも、もう子どもと別れてしまわなあかんのかっていう未練の心が涙をさそいまして、やせた体にこれだけの涙がどこにあるんやろうと思うくらい泣きました。
しかし、その涙の中で何か明かりはないか、光はないか。
そんな状態のときに、家内が子どもを連れて世話をやきに来てくれるんですが、今思えば申し訳ないことやと思いますが、そのときは心のゆとりも無かったし、この憤りをぶつける相手が無かったんで、家内が来たら、
「邪魔になるがな。用事済んだらさっさと帰れ」。
心無いことを言うてしまいます。
ふたりの子どもが私の顔をじっと見てました。
「おとうちゃん死ぬのが怖いんのん。病気が怖いからおかあちゃんいじめてんのん」
て言うたような気がします。
これではあかん。
人間てどう生きてどう死んだらええねんと思うたのが、列島の旅の第一歩でありました。