親鸞・きらら月夜(づきよ) 2014年5月1日

「女性(にょしょう)、もうご心配はない」

「吾々は、聖光院の者じゃ、お供達もおわそうに、どう召された」

「負って進ぜる、背におすがりなされ」二人のこういう劬(いた)わりの言葉さえも、姫の耳に、はっきり入っているかどうか、姫は気もなえて、ただ、向けられた覚明の背を見ると、わなわなと顫(おのの)きつつ、しがみついた。

二人は師の房の牛車(くるま)のそばまで戻ってきて、

「お待たせいたしました。

やはり、参らねば一人の女性(にょしょう)が、悪人の贄になるところでした」範宴は、車からさしのぞいて、

「どこのお方か」

「まだ訊いてみませぬ」

「供の人でもおらぬのか」

「いるかもしれませぬが……見あたりません」

「いずこまで戻るのやら、負うても参れまい、わしが降りてやろう」

「お師さまはお歩きになりますか」

「うむ……」もう、範宴は足をおろしていた。

姫は、疲れきった意識の下(もと)にも、何か、気がねをするらしく見えたが、覚明の背から、車のうちに移されると、初めて、真に安堵(あんど)したらしく、

「ありがとうぞんじまする」微かにいってまた、

「西(にしの)洞院(とういん)の並木までゆけば輦(くるま)もあり、供もいるはずでございますから……おことばに甘えて」

「お気づかいなさるな」

牛車(くるま)はすでにゆるぎ出した。

範宴は、なにか空想に囚(とら)われていたらしく、牛車が廻りだしたのに驚いたかのような容子(ようす)をした。

そして、それに添って歩みだした。

しかし、姫のいう並木まで来ても、姫の従者は誰もいなかった。

ただ一輛(いちりょう)の蒔絵(まきえ)輦(ぐるま)が、路ばたの流れの中へ片方の軌(わだち)を落して傾(かし)いでいた。

「誰もみえんわ。女性(にょしょう)、お住居(すまい)はいずこでおわすか、ことのついでに御門前まで送ってとらせようと詩の房が仰せられる。いず方の姫君か、教えられい」

覚明が、車のうちへいうと、

「月輪(つきのわ)禅閤(ぜんこう)の息女(むすめ)です」と、かすかに裡(うち)でいう。

「えっ」驚いたのは、覚明や性善坊ばかりではない、範宴も意外であったように、

「では、あなたは、月輪殿のご息女(そくじょ)……するとあの玉(たま)日(ひ)姫(ひめ)でいらっしゃるか」

「はい」だいぶ落着いたらしく、はっきりと姫は答えた。

「やはり……仏天のおさしずじゃった……道に迷うたのも、吾々が師の房をさがし求めて行きあわせたのも……。なんと、ふしぎじゃないか」

性善坊は覚明と顔を見あわせて、そういった。

青蓮院の僧正の姪にあたる姫の危難を、僧正のお弟子にあたる師の房が救うということは、そもそも、どうしてもただの偶然ではない。

仏縁の他(ほか)のものではない。

ありがたい大慈の奉行(ほうこう)に勤めさせていただいたものであると、二人は、涙をながさないばかりによろこび合った。

※「奉行(ほうこう)」=主君の命令をうけて行なうこと。