「姫が見えぬが」とやがて僧正が訊ねた。
月輪禅閤は、侍臣をかえりみて、
「まだ支度か。客人(まろうど)もお見えになっているのに」
と、つぶやいた。
「お伝えして参りましょう」
侍臣の一人が立って行った。
花明りの廊下の彼方(あなた)へその姿が朧(おぼろ)になってゆく。
廊には、燈(ともし)の入った釣龕(つりがん)燈(どう)が幾つとなく連なっていて、その奥まった
一室に、姫は帳(とばり)を深く垂れて、化粧をしていた。
湯殿から上がったばかりの黒髪はまだ濡れていた。
童女(わらべ)たちは、柳裏の五(いつ)つ衣(ぎぬ)を着た彼女のうしろに侍(はべ)っていいつけられる用事を待っていた。
侍女の万(まで)野(の)は、姫の黒髪の根に伽羅(きゃら)の香をたきこめたり、一すじの乱れ髪も見のがさないように櫛をもって梳(す)いたりしていた。
やがて、姫は鏡を擱(お)いた。
そこへ廊下からの声が、
「お姫(ひい)様(さま)。叔父君にも、お客人(まろうど)にも、お待ちかねでございまする」
万野がすぐ、
「はい、もううかがいます」と答えた。
窓から花明りの風がさやさやと流れこんで姫の黒髪を乾かした。
「お姫様、それでは」
促(うなが)すと、玉(たま)日(ひ)は、静かに立って童女(わらべ)や万野と連れだって自分の部屋を出た。
そして、客殿の輝かしい明りが池殿の泉に映って見えてくると、玉日は、立ちどまってしまった。
万野が振り向いて、
「お姫様、どう遊ばしたのですか」
姫は、欄(らん)の柱へ顔をかくして、
「何やら、面(おも)映(は)ゆうなった」
「まあ……何の面映ゆいことがございましょう、お内輪の方ばかりですのに」
「でも……」
龕(がん)のうえから、白い花びらが一(ひと)ひら蛾(が)のように舞って、姫の黒髪にとまった。
万野が手をのばす前に、姫は、自身の手でそれをとって、指の先で、弄(もてあそ)びながら、
「私が、こ挨拶に出ないでもいいのでしょう。お父君から、ようく、お礼をいってくださるから」
「そんなことはなりません」
万野は、姫が、いつものわがままを出して、駄々をこねるのであろうとばかり受け取っていたので、ややうろたえた。
「さ……参りましょう。なんで、こよいに限って、そんなにお羞恥(はにか)み遊ばすのですか」
「羞恥むわけではないけれど……」
「では、よいではございませぬか」
手を引くようにして、万野と姫とが、客殿のほうへ近づいてゆくと、眼ばやく、叔父の僧正が、
「見えられたな、さあ、ここへこい、わしのそばへ」と、さしまねく。
僧正の眼には玉日姫が、いつまでたっても、無邪気な少女としか見えなかった。
今になっても、時々範宴を子ども扱いするように、玉日をも、幼子のままに見て、膝の上にでも乗せそうによぶのであった。