吉野の桜はもう散って吹雪になっていたが、月(つき)輪(のわ)の里の八重桜は今が見ごろだった。
雪のように梢(こずえ)に積んだ厚ぼったい花は、黄昏(たそがれ)と共に墨のように黒ずんでいたが、やがて宵(よい)月(づき)の影がその花の芯(しん)にしのび入るころになって、万朶(ばんだ)の桜が、青銀色な光をもって、さわさわと乾いた音を風の中に揺り動かした。
「こよいの客人(まろうど)は、姫の生命(いのち)の親じゃ、粗略がないように」
と、月輪の館では、禅閤(ぜんこう)を初め、家族や召使の端までが、細かい気くばりをもって、門(かど)を清掃して、待っていた。
やがて、一輛の牛車(くるま)に、二人の客が同乗してきた。
むろん、範(はん)宴(えん)と慈円僧正である。
「お待ち申しておりました」
家臣は、列を作(な)して迎えた。
禅閤は式台まで出迎えて、
「ようこそ」と、みずから客殿へ導いてゆく。
前(さき)の摂政(せっしょう)太政(だいじょう)大臣であり関白の重職にまでなった禅閤兼(かね)実(ざね)の住居(すまい)だけあって、その豪壮な庭構えや室内の調度の贅沢さには眼も心も奪われるような心地がする。
範宴は、数年前に、師の僧正と一(いっ)伴(しょ)に、いちどここへ来たことがある。
その時は、見るかげもなくやせおとろえて旅から帰ってきたばかりであったし、自身もまだ名もない一学徒にすぎなかったので、ここの家臣たちは誰もその時のみすぼらしい若法師がこよいの主客であるとは気がついていないようであった。
大勢の侍女(こしもと)たちと一緒に何か遊戯をしている所へ来あわせたので、自分にも眼かくしをせよといって困らせられたことを範宴は今ぼんやりと思い出していた。
その姫はまだ顔を見せなかった。
たくさんな燭(しょく)のあいだを美しい人々が高坏(たかつき)やら膳やら配ってまわる。
みな一門の人々であろう、範宴と僧正とを中心にして十人以上の人々がいながれている。
「酒(ささ)は参られるのか」
まず主客の範宴に、禅閤からすすめると、範宴は、
「いただきませぬ」と、はっきりいった。
僧なのでむげにはすすめなかった。
僧正はすこしは嗜(たしな)む口なのである。
それに、主(あるじ)の禅閤とは骨肉の間がらではあるし、ここへ来てはなんのわけ隔てもない。
「範宴のいただかぬ分は、わしがちょうだい申そう、こよいは、お志に甘えて、堪能(たんのう)するほど飲もうと思う、帰りには、車のうちまでかいこんでもらいたいものだ、それだけは頼んでおくぞ」
僧正はそういっていかにも帯(おび)紐(ひも)を解いたような容子(かたち)で杯をかさねはじめた。
禅閤も、今は隠棲して老後をたのしむ境遇である。
こういう夜は、客よりも、彼自身の生活のふくらみであった。
「青蓮院どの、それでは主客転倒(てんとう)というものではないか」
「なに、範宴には、料理をたんと出しなされ」
「範宴御坊、どうぞ、お箸(はし)をおとりくだされい」
「いただいてます、僧正のこういう自由なお姿を見ているのは、私として、何よりの馳走に存じます。
また、羨(うらや)ましくも思われます」
「ははは、範宴が、何かいうとる」
僧正はもう陶然(とうぜん)と酒仙の中の人だった。