「待てっ、待たんかっ」
警吏(やくにん)は忌々(いまいま)しげに喚いて追いつづけてゆく。
けれど四、五町も駈けると彼自身がそうしてまで捕えるほどの者かどうかを疑って舌打ちを鳴らした。
「盗賊ではないらしい、また、公(く)卿(げ)の女部屋へ忍んだ女犯(にょぼん)僧(そう)だろう、そんな者を捕まえていた日には限りがない」
警吏は額(ひたい)の汗を、手につかみ忘れている法衣(ころも)の片袖でこすった。
そして汚い物でも投げうつように傍らの流れへ向って捨てようとしたが、すぐその崖の上から凄まじい滝水のように鳴って落ちる琵琶の音(ね)に気がついて、
「誰だっ、今ごろそんな所で」
と仰向いて呶鳴った。
しかし、琵琶の主(ぬし)は答えようはずもない、その音をきけばわかるように身も魂も四(し)弦(げん)の中に打ちこんでいて、虚空の音(ね)が彼か、彼が虚空の音か、その差別(けじめ)をつけることは至難であるほどな存在であった。
「ははあ……例の峰(みね)阿(あ)弥(み)法師がまた独り稽古をしているのだな、あいつも変り者だ、銭を与えても嫌だといえばどんな目にあわせても弾(ひ)かないし、そうかと思うと、誰も聞いていない真夜中の山に入ってあの通り独りで弾いて独りで夜を明かしていたがる」
何の罪科(とが)もあるまいに、警吏(やくにん)はその琵琶のあまりに楽しげなのが嫉(ねた)ましくでもなったか、おおウい――と声をあげて再三呼ばわるのに、いっこう答(いら)えがないので、石を拾って松林の丘を見上げながら抛(ほう)り投げた。
ちょうど一曲を弾き終ったところであるとみえ、石が届くとしばらくして撥(ばち)が止んで、こんどは丘の上から、
「誰たっ、つまらない悪戯(わるさ)をする奴は」
「篝(かがり)屋(や)の警吏(やくにん)だ」
「警吏ならなおよろしくない。なにがゆえに、この法師の琵琶をおとめなされますか。人家に近い所でもあるなら悪かろうが」
「ちと訊ねることがあるから再三呼んでいるのに、返辞をせぬから石をなげたのだ。その丘へ、今し方、一人の僧侶が逃げこんでは行かなかったか」
「人にものを訊くのに石を投げて訊くという作法がありましょうか。そんな者は、この丘へ上がって参りません」
「それならよいが……」
警吏(やくにん)は歩みかけたがまた、
「おい峰阿弥。おまえは先ごろ、月輪公の御宴(ぎょえん)に招かれたそうだが、あの館(やかた)には美しい女がたくさんいるだろうな。……待てよ、そう訊ねても盲人ではわかるまい。無駄ごとばかりする晩だ、よし、月輪公の下(しも)部(べ)の者をたたき起して将来を誡(いまし)めておいてやろう」
「もしお警吏、つまらないことに、おせっかいはおよしなさい。誡めたからとて、この世に忍び男(お)と忍び男を待つ女性(にょしょう)が尽きるはずはございません」
「堕(だ)落(らく)僧が、堕落僧を庇(かば)っている。おお夜が明けるぞ」
「もう明けますか。……ああそういえばすこし疲れた、わたしはこれから楽々と無我の眠りに遊べるが、人間に与えられたこの甘睡(かんすい)すらできずに悶々と今日の空の下(もと)に圧(お)されて暮す人もあろう。そうだ、黒谷の法(ほう)然(ねん)上人の御口(ごく)授(じゅ)を思いだした。――南無(なむ)阿弥陀(あみだ)仏(ぶつ)、南無阿弥陀仏」
丘の上の破(や)れ果てた御堂の縁に、彼が易々(やすやす)と木の葉虫のようにごろりと横になったころ、一方の警吏(やくにん)は、月輪家の裏門の戸をどんどんとたたいていた。