白磁(はくじ)を砕(くだ)く 2014年6月19日

暁を惜しむまで話しても語り尽きないものと人はいうけれど、二人の場合はそうでなかった。

会えば相見た満足だけでいっぱいになってしまった。

万野が気をきかしていなくても同じである。

なんの話をするということもなく、もちろん燈(とも)灯(しび)をともしては館の者に気づかれる惧(おそ)れがあるから、明りもない閨(ねや)戸(ど)の帳(とばり)を空ろにしては、蔀(しとみ)の下近く端(はし)居(い)したまま夜(よ)半(なか)の冷たいものがじっとりと五(いつ)つ衣(ぎぬ)の裳(もすそ)と法衣(ころも)の袖に重たくなるのも忘れ果てて、相思の胸のときめきをお互いにただじっと聞き合っているに過ぎない二人なのであった。

――あなたは春が好きですか、それとも秋がおすきですか。

書(ほん)はなにを読みますか。

古今(こきん)のなかでは誰を好みます、万葉のうちではどの歌を愛誦されますか。

――などと他愛のない話をするのさえも、なにか息ぎれを覚えて、痛いほど心臓がつまって、乾いた唇は思うように意志もできない。

ことに姫はうつ向いたきりと言ってよいほど顔を斜めに俯(うつ)伏(ぶ)せている。

どうかしてその黒髪をそっと風が越えてくると、蘭麝(らんじゃ)のかおりなのか伽羅(きゃら)なのか範宴は眩(めま)いを覚えそうになった。

加古川の沙(しゃ)弥(み)のささやきが臆病な耳もとで嘲(わら)うように聞こえる。

まざまざと欺(ぎ)瞞(まん)の法衣(ころも)につつまれた獣心の相(すがた)を自身の中に発見する、万葉の話も、春秋のうわさも実はうわの空なのだった。

勇猛で野性な血液が烈しい抗争を起して本能を主張する、いかなる聖(しょう)経(ぎょう)も四囲の社会も無視してかかる猛悪な精神が彼の全霊を炎々と焦(や)くのだった。

「………」

しかし、範宴その人の外表は水そのもののような冷たい相(すがた)をしていた。

対坐している愛人の細かな神経をもってしても彼の内部を針の目ほどものぞくことはできない。

また、決して許そうともしない範宴なのである。

鉄で作られた虚偽の函(はこ)のように範宴の膝はいつまでも痺れを知らずに真四角なのである。

そして彼はついにその虚偽を生れながらに生みつけられている人間であったという今さら追いつかない嘆(たん)涙(るい)にさんさんと魂を濡らして、そこに恋人のあることも忘れ果てる。

とこうする間(ま)に鶏(とり)の声が聞えてくる、万野は自分の寝屋(ねや)の妻戸をそっと押して、別れ難かろう二人に別れを促(うなが)しにくるのであったが、そこへ来てみると初めのままの位置に初めのままの居住いを硬くして黙り合っている二人なので、自分があんな苦心をして一方を誘ってきたのは一体なんのためかと歯がゆくもなり焦々(じりじり)とおもうのでもあったが、夜が白みかけては一大事を醸(かも)す惧(おそ)れがあると、姫にかわって次に来る夜の言(げん)質(ち)をとって、そっと壺のうちを脱けて裏門の戸を開け、夢遊病者のような黒い人影を見送るのだった。

すると、そういう幾度かの事実をいつの間にか知っていたものか、あるいは、偶然その晩に限って運悪くぶつかったものか、範宴の後ろをしばらく尾(つ)けてきた夜固めの警吏(やくにん)が、

「こらっッ」

大喝(だいかつ)を浴びせておいて不意に後ろから組みついた。

帛(きぬ)の裂ける音がぴっと鳴った。

警吏は法衣(ころも)の片袖だけをつかんで前へのめっている。

おそろしく迅い跫音はもう闇のうちへ遠くかくれていた。