親鸞・去来篇 2015年2月10日

わん―― 

足の迅(はや)い飼主に追いついて、大きな熊野犬は、尾を振って、絡(から)みつく。

「黒」と山伏は、呼んで、

「馬鹿な奴だ、おれのような宿なしに従(つ)いてきてどうする、帰れ」

といい聞かせている。

しかし、杖で追われても、黒は帰ろうとしなかった。

山伏はてこずりながら、

「帰れといっても、貴様も帰る故郷がないのか。この弁(べん)円(えん)と同じように――」

わん――

黒は、山伏の袂(たもと)を噛む。

山伏は旅の道から尾(つ)いてきたこの三界無縁の犬を、さすがに、酷(むご)くも捨てかねて、

「その代り、黒、俺と一緒に、野たれ死をしても、俺を恨むな。……それでもいいのか、おお、それでも」じゃれる句をの首根っこを膝へ寄せて、山伏は、路傍の樹の根へ、どっかりと坐ってしまう。

「疲れたなあ……腹も減(へ)るし――」

蜩(ひぐらし)の声が雨のようである。

四辺(あたり)の木立は暮れかけているのだ。

ふと、後ろを仰ぐと、寺院の山門が見える。

そして、七、八名の学僧がかたまって、立ち話になにか論議していた。

「いよいよ、世は末法(*)だ、僧が、公然と、貴族の娘と、結婚するなどという沙汰が、なんの不思議に思われないほど、仏法も、人心も、堕落してきたのだ」

一人が、書物を抱えながら、眼を剥(む)いていう。

他の僧も、肩をそびやかしたり、法(ほう)衣(え)の袂(たもと)をたくしあげて、

「聞けば、法然はそれを、むしろすすめたというじゃないか」

「なんでも、大衆大衆と、庶民の低いほうへばかり媚びている俗教だからな。――しかし、法然はとにかく、綽空のような、いやしくも北嶺の駿足といわれた者が、なんたる破(は)廉(れん)恥(ち)か」

「僧の対面にかかわる」

「五山の僧衆は、黙認する気か」

「苦情をいっても、個人の意思でやる分には、どうもなるまい」

「仏誅(ぶっちゅう)を加えろ、仏誅を」

「どうするのだ」

「撲(なぐ)る!」

「まさか、暴力も――」

「さなくば、婚儀の当夜、大挙して襲(お)しかけ、彼の破戒行為を責める」

黒の毛を撫でて、蚤を取っていた山伏は、不意に杖を立てて、

「黒っ、来いっ」と跫(あし)を早めた。

石運びだの、大工だの、屋根(やね)葺(ぶき)などの住む狭くて汚い裏町を、山伏は、布施(ふせ)を乞うて軒から軒へとあるいて行った。

しかし、どこの家にも、近ごろは、念仏の唱えが洩れていて、修験者(しゅげんじゃ)の経に耳をかすものがなかった。

「――お通り」とどこでもすげなくいわれる。

山伏は、舌打ちをして、

「忌々(いまいま)しいことばかり聞く日だ」

と、革(かわ)嚢(ぶくろ)の小銭をかぞえて、なにか、油物をじりじり揚げている食べ物売りの裏口をのぞいて、

「飯を食わせんか。俺と、犬に、これだけで――」

と、貧しい銭を手に乗せて、揚物をしている女にいった。

*「末法(まっぽう)」=仏教で、シャカムニの死後を三期に分けた第三。千五百年たった後の一万年。仏法のおとろえる世。