桜の下で思うこと

3月下旬のことですが、お花見へ行ってきました。

今年は全国で鹿児島が一番の開花となったとのニュースを観て、すぐにお花見へ出かけたことでした。

まだまだ5分咲きぐらいではありましたが、すっかり春の陽気につつまれた公園一帯は、幼稚園の園児や、家族連れで賑わっていました。

1年に1度訪れる、桜の季節。

何気なく、毎年毎年「綺麗だな〜」と眺めては、春の訪れを喜んでいました。

そう、毎年当たり前のように見ていた桜の花。

けれど、よくよく考えてみると、来年もまた同じようにこの桜を見ることが出来るとは限らないということに気付かされました。

来年、再来年、3年後、5年後。

・・・10数年後のことは誰にも分かりません。

明日をも分からない我が身であります。

昨年も大切な方々との別れがたくさんありました。

「いつでもまた会う事が出来る」と思っていたのに、思いもよらない急な別れ。

「またいつかお浄土であわせていただける」

と、心の奥では分かってはいるものの、急な別れの寂しさを、拭いさることはやはりなかなか出来ることではありません。

当たり前のように過ごしている日々。

当たり前のように明日は来ると思ってはいますが、

「今生かされている1日は、亡くなっていった人の生きたかった1日」

という言葉を聞いたことがあります。

それだけ今、いただいている命は、いつまでも続くものではなく、生と死は表裏の関係であるということを、春の桜を通して、気付かされることでした。

「一瞬、一瞬を大切に、感謝の心を忘れずに、日々過ごしていけたらな」

と、桜の下で思うことでした。

【確認事項】このページは、鹿児島教区の若手僧侶が「日頃考えていることやご門徒の方々にお伝えしたいことを発表する場がほしい」との要望を受けて鹿児島教区懇談会が提供しているスペースです。したがって、掲載内容がそのまま鹿児島教区懇談会の総意ではないことを付記しておきます。