「笑いてなんやろ」(下旬)わらって暮らす

でもおかげさんで命も取り留めまして、頭も開かんですんで、いまだに後遺症は何一つ残ってないんですよ。

結局八月いっぱい北海道にいまして、九月一日に大阪に帰ってくるときには、自分の足で空港に降りることができたんです。

でも空港に降りたら、うちの弟子が迎えにくる言うてたのに誰も来とらへんのです。

「あいつらなんや。師匠帰って来るいうんで、千羽鶴持って迎えに来ます言うて、来とらへんやないか」。

見たら、病人や車イスの人が出てくるところに異様なやつらがいるんです。

見たらうちの弟子。

後ろから行って「ワッ」言うたら「ウオー、師匠足おまんのかい」「あるわいな」言うて大わらい。

このとき「ああ、生きててよかったなあ」と思いました。

自分の足で降りてこられたから「お前らあほか」言うてわらえるんです。

これが病気やったらわらわれへんのです。

「これは誰の力でもない、生かしてもらっているんだ。自分か生きたんじゃない、生かしてもらっているんだ。だからわらえるんだ」と。

「わらえる」ということは健康のバロメーターであり、生かして頂いておるということのあかしなんですね。

そのときはわらえることがいかにええことかということと同時に、生きてることの有り難さを感じました。

やっぱり人間ていうのはわらって暮らすのが一番なんですよ。

「一怒一老一笑う一若」。

いっぺん怒ると一つ老けるんです。

一つ笑うと一つ若くなるんです。

「わらう」という神経は頭の前のほうにあるんです。

だから、わらうと精神活動が活発になり老けないしぼけない。

怒るというのは動物みなできるんですよ。

ですから同じ精神活動の中でも次元が低いんです。

腹が立ったらもの食われへんでしょう。

そういう損な現象がいっぱいあるわけです。

でも、いつどこででもわらったらええんかいうたら、そういうもんでもない。

「笑う」と「嗤う」の区別なんですよ。

どこで区別するか。

それは、わらいによって相手が傷付くか傷付かへんか。

相手の傷付かないわらいはなんぼわらってもいいんです。

これはどういうことかというと、遠慮と気兼ねの違いなんです。

「遠慮気兼ねのない仲」て一言でいうでしょう。

実は遠慮と気兼ねはちょっと違うんです。

つまり、自分だけが我慢したらええというのが遠慮なんです。

日本人はこの遠慮が上手なんです。

遠慮が好きなんですね。

ただ、何十年連れそうた嫁はんでも、婿はんの顔見ただけで、茶欲しがってんのか水欲しがってんのか一杯飲みたがってんのか分からへん。

遠慮せんと言うべきなんです。

けれども、そのときに「今わしがこう言うたら、この人どう思うやろうなあ」と相手の気持ちをかねて考える。

自分の発言が、自分の行動が、相手にどんな気持ちを抱かすか、相手がどう考えるか。

相手の気持ちをかねて考えることができたら、世の中は円滑にいくんです。

わらうときも遠慮なくわらえばいいんです。

「わらわれるようなことしたらいかん」とか「わらわれないようにしなさい」とかいう「わらう」はちゃんと区別しとけばいいんです。

わらうときにはおおらかにわらったらええのです。

ただ、相手を傷付けるようなときにはわらわない。

つまり「遠慮はするな、気兼ねをせえ」というのが言いたいんです。