なるほど――そう知ってから、道をゆく人々の口から洩れる言葉に耳をとめていると、
「えらい人出じゃの」
「何せい、お上人様のおすがたは、この春から、初めて拝むのじゃ、冬ごろから、久しくお病気であったからの」
「もう、すっかり、お健康(すこや)かになったかの」
「さ……お年がお年じゃで、すっかりとはゆくまいが」
「衆生(しゅじょう)のためには、わが身もない、病気もいとわぬと、こういう意気の法然様じゃによって、押して、お出ましになるのじゃろう」
「この暑さに――」
「もったいないことよ」
「でもきょうの専修念仏に、このように、多くの人が、お上人様の徳を慕うて集まるのを御覧(ごろう)じたら、さだめし、ご本望じゃあるまいか」
「そねむのは、叡山の衆や、南都の坊さまたちじゃ」
「これ……。うかつなことをいいなさんな、法師のすがたも見える」
「何といおうが、わしらは、念仏宗じゃ、念仏宗に変ってから、この身も心も、軽うなった気がする――」
「わしなどは、女房が先で、女房に説かれて、初めて、吉水のお話を聞き初めたのじゃが、今となってみると、もし、吉水のお上人様の声というものが、この身の耳に触れなかったら、相変らず、ばくちはする、酒は飲む、稼業は打ッちゃらかし、どうなるものかと、太く短く、女房子を不幸にして暮していたかも知れんのじゃ」
そういう人々があるかと思うと――また、
「きょうの別時(べつじ)念仏には、住蓮(じゅうれん)様や、安楽房様も、何か、お話をするのでしょうか」
「え、あのお二方は、いつも、鹿ケ谷にいらっしゃるのですから、きっと、きょうもお見えになりましょう」
「私は、安楽房様のお話を聞いていると、何かしら、嬰児(あかご)のように、心がやわらいで、それから幾日は、心が清々(すがすが)となります」
「幾日だけではいけないではございませんか」
「でもまだ、念仏に入りまして、日が浅いのですから為方(しかた)がありません」
などと、歓びを語り合ってゆく若い女たちの群れもあった。
松虫は、そういう人たちの輝いている顔を見ると、
(――羨(うらや)ましい)と、心から思った。
御所へ帰る時刻ばかり気にして、陽脚(ひあし)の短さを、生命(いのち)のちぢむように惧(おそ)れている自分たちに較べて――
(みんな生々(いきいき)している)と思うのであった。
(あの人たちの張りきった生活と、御所の奥のほの暗い壁絵のような動きのない自分たちの日常と――)
こう比較して、考えずにいられなかった。
ふたりは、若かった。
うずうずと、今日はその若い血や、夢や、さまざまな青春が、日常のいましめから解かれて、皮膚の外へ出ていた。
「鈴虫さま。
行ってみましょうか」
「ええ」二人は、往来をながれてゆく白い埃と、群集の足について、うかうかと歩いていた。
鹿ケ谷のふもとに来ると、そこは、夏木立と涼しい蝉時雨(せみしぐれ)につつまれていたが、人の数は、一すじの山路に、錐(きり)を立てる隙もないほどだった。
※「専修(せんじゅ)」=仏教で、ひたすら念仏をとなえて、他の行を修めないこと。