「せっかく、きょう一日、お暇(いとま)をいただいたのですから、日いっぱい、歩けるだけ、歩いてみようではありませんか」
年下の鈴虫は、そういって、羅(うすもの)の被衣(かずき)に、埃まじりの風をなぶらせながら、子供っぽく、走ってみたり、道ばたの清水を、手で掬(すく)ってみたり、
「おお冷たい!」
そして――
「飲めないかしら?」
と、愛くるしい首をかしげて、友を見た。
「ホホホホ。誰も見ていないから、どんなことをして飲んでも、笑う人はありませんよ」
松虫がいうと、
「じゃあ」
と、鈴虫は、手でそれを掬って、唇から顔を、雫で濡らし、その顔を、被衣の端で拭いた。
そんなことが、二人には、わけもなく楽しかった。
御所の日常が――禁裡(きんり)の後宮生活というものが――まったく儀式化され、粉飾化され、そこに生きるものは、ただ、美しくて作法のよい人形のようでしかなかったので、二人は、野の土へ、解放された羊のような欣(よろこ)びを、感じるのだった。
「……おや、松虫さま、嘘ばかりおっしゃって」
「どうして」
「誰も通らないといったくせに、あんなに、ぞろぞろと、どこかへ人が行くではありませんか」
「この辻へ来てからでしょう。ごらん遊ばせ、みな同じ横から曲がってくる」
「どこへ行く人達でしょう」
「鹿ケ谷(ししがたに)の方」
「何があるのかしら?」
「問うてみましょう」二人は、樹蔭に陽をよけて、佇(たたず)みながら、往来をながめていた。
奴袴(ぬばかま)をはいた男たちや、烏帽子を汗によごしてゆく町の者や、子どもや、老人や、髪をつかねた女や――中には太刀を厳(おごそ)かに横たえた武士とか、両家の女房らしい姿も、まじってみえた。
如意ケ岳のふものとの方へ近づいてゆくにつれて、並木から、細い小路から、辻へ出るごとに、その人数は増していた。
そして、蟻のように、同じ方角の道へ、つづいて行くのだった。
「もし」と、松虫が、これも汗ばんで行く一人の女へ、そっと訊ねてみた。
「――あの、今日は皆さまの行く方に、何かあるのでございますか」
女は、髪の生え際の汗を、袂(だもと)で拭いて、松虫と鈴虫のすがたを、じっと見ていた。
「――あなた方は、御所のお方でございますね」
「え」と、松虫は、なんだか、生々とした生活力の中にある同性の眼にながめられるのが、肩身のせまいように覚えて、小さい声で答えた。
「……じゃあ、ご存じないのも無理はない。きょうは、鹿ケ谷(ししがたに)へ、わざわざ吉水のお上人様が出向いて、私たちのために、有難いお勤めをして下さるのです」
「あ……吉水の」
「ご存じですか」
「御所のうちでも、おうわさはよく聞いておりますが」
「それで、こうしてみんな、鹿ケ谷へ行くのですよ」
遅れては――と心の急(せ)くらしい足つきで、女は、そういうともうふたりの先を歩いていた。
※「禁裡(きんり)(禁裏)」=出入りを禁じる意から、皇居。御所。宮中。
※「奴袴(ぬばかま)」=指貫(さしぬき)の異称。昔、衣冠・直衣(のうし)・狩衣(かりぎぬ)の上にはいたはかま。すそをふくらませてくくる。