親鸞・悪人編 2015年8月13日

「せっかく、きょう一日、お暇(いとま)をいただいたのですから、日いっぱい、歩けるだけ、歩いてみようではありませんか」

年下の鈴虫は、そういって、羅(うすもの)の被衣(かずき)に、埃まじりの風をなぶらせながら、子供っぽく、走ってみたり、道ばたの清水を、手で掬(すく)ってみたり、

「おお冷たい!」

そして――

「飲めないかしら?」

と、愛くるしい首をかしげて、友を見た。

「ホホホホ。誰も見ていないから、どんなことをして飲んでも、笑う人はありませんよ」

松虫がいうと、

「じゃあ」

と、鈴虫は、手でそれを掬って、唇から顔を、雫で濡らし、その顔を、被衣の端で拭いた。

そんなことが、二人には、わけもなく楽しかった。

御所の日常が――禁裡(きんり)の後宮生活というものが――まったく儀式化され、粉飾化され、そこに生きるものは、ただ、美しくて作法のよい人形のようでしかなかったので、二人は、野の土へ、解放された羊のような欣(よろこ)びを、感じるのだった。

「……おや、松虫さま、嘘ばかりおっしゃって」

「どうして」

「誰も通らないといったくせに、あんなに、ぞろぞろと、どこかへ人が行くではありませんか」

「この辻へ来てからでしょう。ごらん遊ばせ、みな同じ横から曲がってくる」

「どこへ行く人達でしょう」

「鹿ケ谷(ししがたに)の方」

「何があるのかしら?」

「問うてみましょう」二人は、樹蔭に陽をよけて、佇(たたず)みながら、往来をながめていた。

奴袴(ぬばかま)をはいた男たちや、烏帽子を汗によごしてゆく町の者や、子どもや、老人や、髪をつかねた女や――中には太刀を厳(おごそ)かに横たえた武士とか、両家の女房らしい姿も、まじってみえた。

如意ケ岳のふものとの方へ近づいてゆくにつれて、並木から、細い小路から、辻へ出るごとに、その人数は増していた。

そして、蟻のように、同じ方角の道へ、つづいて行くのだった。

「もし」と、松虫が、これも汗ばんで行く一人の女へ、そっと訊ねてみた。

「――あの、今日は皆さまの行く方に、何かあるのでございますか」

女は、髪の生え際の汗を、袂(だもと)で拭いて、松虫と鈴虫のすがたを、じっと見ていた。

「――あなた方は、御所のお方でございますね」

「え」と、松虫は、なんだか、生々とした生活力の中にある同性の眼にながめられるのが、肩身のせまいように覚えて、小さい声で答えた。

「……じゃあ、ご存じないのも無理はない。きょうは、鹿ケ谷(ししがたに)へ、わざわざ吉水のお上人様が出向いて、私たちのために、有難いお勤めをして下さるのです」

「あ……吉水の」

「ご存じですか」

「御所のうちでも、おうわさはよく聞いておりますが」

「それで、こうしてみんな、鹿ケ谷へ行くのですよ」

遅れては――と心の急(せ)くらしい足つきで、女は、そういうともうふたりの先を歩いていた。

※「禁裡(きんり)(禁裏)」=出入りを禁じる意から、皇居。御所。宮中。

※「奴袴(ぬばかま)」=指貫(さしぬき)の異称。昔、衣冠・直衣(のうし)・狩衣(かりぎぬ)の上にはいたはかま。すそをふくらませてくくる。