「松虫様ではありませんか」
先では、こういって、馴々(なれなれ)しくほほ笑みかけながら近づいてきたのであったが、
「どなた?」
松虫には、思い出せなかった。
鈴虫にも考えつかない若僧(にゃくそう)だあった。
若僧は、側へ来て、いんぎんに礼儀をして、
「安楽房でございます」といった。
それでもまだふたりが不審な顔をしているので、
「私は今、法友の住蓮とふたりして、この鹿ケ谷に住み、今日もかように吉水の師の房を迎えて、幸いに、盛な法筵(ほうえん)を営みましたが、ずっと以前、師の君に随身して、仙洞御所へうかがったことがございます。その折、あなた様にも、鈴虫様にも、お目にかかっておりました」
「お……そう仰っしゃれば」
やっと解けたらしく、
「思い出しました」
松虫は、何とはなく、羞恥に顔を染めた。
「住蓮をお紹介(ひきあ)わせしましょう」
安楽房は、ちょっと戻って行って、すぐ友の住蓮を伴(つ)れてきた。
武士として鍛えた体に、聡明な知識を持ったこの二人の若くて逞しい男性のすがたは、すぐふたりの気持をつよく囚(とら)えてしまった。
間もなく、ふたりは山を降りていたが、ふたりとも妙に無口になっていた。
加茂の岸に立って振向くと、山にはまだポチと二つの灯が残っていた。
――住蓮と安楽房の眸(ひとみ)がそこで呼んでいるように。
同時に、松虫も鈴虫も、これから帰って行かなければならない御所の奥の生活と、そこの灯の色を想像してよけいに心が暗くなった。
「もう何刻(なんどき)でしょう、松虫様」
「さあ……」
「すっかり遅くなってしまいました。何と、云い訳をしたらよいでしょうね」
松虫は、もうその心配に、胸をいためているらしかった。
御所の規律のやかましいことはいうまでもない。
まして、後宮は、貞操の檻(おり)である。
松虫も、同じように、局(つぼね)の老女や役人の猜疑(さいぎ)な眼や針のような言葉が、帰らぬうちから頭を刺して、さっきから足がすすまないのであった。
ちょっと出るにも、帰るにも、こんな憂いが離れない内裏(だいり)の生活を思うと、彼女たちは、
(なぜ御所へなど上がったのか)と悔いの嘆息(ためいき)が出るのだった。
町家にいたころは、御所の内裏といえば、どんなに典雅で平和で女性(にょしょう)の幸福を集めているところかと、あこがれていたものである。
――そして、そこの多くの女性のうちでも最も羨望される寵妃(ちょうひ)となって、上皇の愛を賜うほどな身になった今日になってみれば、昔の憧憬(あこが)れは、まことに幼稚な少女の夢にすぎなかった。
なるほど、身にだけは、珠をかざり、綾を着て、和歌や絵にある生活のままな姿はしているが、上皇は、御政治のことさえ、今帝(きんてい)におまかせしきれないほど、御気質の烈しいお方であるので、後宮の彼女たちには、口にも出せない気苦労がある。
その上に、寵妃たちを取り巻く、典侍とか、女官たちのあいだには、閥(ばつ)の争いだの、意地わるい嫉視(しっし)だのがあって、日蔭で冷ややかに歪(ひね)くれた眼と眼が、絶えず、行儀作法の正しいなかで、根強い呪いと闘いを交わしているのが、ほとんど、明けても暮れてものことなのである。
「ああ……」松虫がこうつぶやくと、鈴虫も俯向(うつむ)いたまま、重い吐息をついて歩いた。