親鸞 2015年9月7日

快楽(けらく)娯楽、きりのない人間の慾心。

わけて色慾や虚栄や、そういうものが、人間にとって、どんなに、人間の真実と、生命の充実を蝕(むしば)むか。

そして、くだらないか。

また、はかない刹那刹那か。

法然は、若人のように、頬に紅潮をもって、出家功徳経のうえから、切々と、話すのだった。

無廬二刻(ふたとき)に余る時間を――大なり小なり、快楽、五慾をもたない人間はない。

また、その五慾の度を、みずからほどよく――生命の薬ぐらいに――生活に入れている人はすくない。

聞き入っていた人々が、

「ああ」ほっと、自責から顔をあげてみると、もう、御堂のうちは、まったく暗くなって、上人のすがたは綿のようつかれたらしく、弟子たちに、抱えられて休息の間(ま)へ入っていた。

鐘、磬(けい)の音――そして、明々(あかあか)と、つぎ直された灯(あか)しに、蓮華が、ひらひらと、撒(ま)かれていた。

そろそろと、御堂のうちは、空席がひろがって行く。

そこらにいた人々が、還ってゆくのである。

人の起った後には、青い夕空のいろがほのかにながれていた。

「…………」

ひぐらしの啼く音が、雨のようであった。

松虫と鈴虫の二人は、起つのをわすれていた。

「…………」

ふたりとも、先刻から、じっと、うつ向いたまま、にわかに抱(いだ)き切れないような大きなものを、その胸にかかえて、さんぜんと、涙ばかりが先に流れてしまう。

(人にこの顔を見られては――)そう思うので、顔も上げ得なかったし、また、いつまでも、ここを去りたくない気がした。

大きな衝動をうけたのである。

法然の一語一語が肺腑(はいふ)をつきさすようだった。

――さながら、きょうの仏陀と阿難とそして王子との話は、自分たちの住んでいる城――いやあの御所のうちに似ている。

快楽(ケラク)虚栄、又アラユル欲望ニ惑溺(ワクデキ)シテサメザルモノハ、必ズ、命(メイ)七日ニ終ラン――

ほんとうに仏陀はそう仰っしゃったのかしら?――いやあの上人のことばではない、それは経にあることだ、仏陀の声そのものなのだ。

(仏陀の声を――)松虫は、何か、飛び上がりたいような歓喜をおぼえた。

何千年のむかしの聖者(ひじり)の声を、今まざまざとこの耳で聞くことのできた機縁に、感謝の涙があふれてきた。

(何という自分だったろう)

この鹿ケ谷へ登ってくる前の、自分と――ここへ坐った後の自分とをくらべて見て、そう思った。

――と急に、御所のあの生活へもどるのが嫌になった。

たそがれの灯を見るにつけ、そこにある幾多の醜いものが瞼(まぶた)にういてきて、

(だが、帰らなければならない)と思うと、よけいに足がすすまないのであった。

鈴虫も、同じような気持らしかった。

あのよく笑ってばかりいる、はしゃぎやの彼女が、じっと、深い眼をして、階段を下り、自分の履き穿物(はきもの)をさがし、そして暗い大地へ、黙り合って足を運びだしたのである。

――すると、廻廊の筵(むしろ)を巻いていた若い僧が、

「お……」と、声をかけた。