上皇が熊野へ行幸(みゆき)のあいだは、御所のお留守の者ばかりなので、参内する公卿(くげ)もなかったし、公用もほとんどなかった。
「かかる折こそ」
とばかり、舎人(とねり)たちは、宵の早くから酒を持ち込んでいるし、上達部(かんだちべ)たちは、宴楽に耽(ふ)けっているし、衛府(えふ)の小者などは、御門が閉まると、交(かわ)る交る町へ出ては、遊んで帰った。
今も、一人の衛府の者が、酒のにおいを隠して、どこからか戻ってきたが、彼が、衛府の溜(たま)りへ入りかけると行きちがいに、小門の外へ、すうっと出て行った人影がある。
「おや?……」
と、振向いて、彼はそれを見ていたのである。
人影は二人であった。
被衣(かずき)をふかくかぶっていた。
ちょうどその夜は二日月の研(と)がれた影が薙刀(なぎなた)のように大樹の梢に懸かっていた。
青い月明かりに、何か夢の中の人間みたいにその被衣は光っていた。
――ひらっと、蛾のように、御所の外へ二つの影が消えてから、衛府の男は、独り言につぶやいたのである。
「局(つぼね)の女房たちも、こんな晩は、男が恋しとみえる。……だが、忍びでもすることか、御門を大びらに恋の通い路にされちゃあ困る。何ぼなんでも、俺たちがお役目として困るじゃないか」
それから、衛府の番小屋に入って、ほかの同役の者たちと笑いさざめいていると、大宿直(おおとのい)の公卿(くげ)から下役の吏員(りいん)が駈けてきて、
「これ、衛府の者」
と、外で喚(わめ)く。
「はっ」
小舎(こや)を開けると、吏員は、何か狼狽した顔つきで、息を昂(たか)めていうのだった。
「――今し方、誰か、御門の外へ出た者を見なかったか」
「さ?……誰か、御門を通ったろうか。おれは知らぬが」
一人がいうと、
「おれも知らん」
「わしも」
恍(と)ぼけた顔を見合せた。
「はてな、小門のほうは」
「小門は、宵のうちは開けておりますが」
「では、誰が外出(そとで)してもわかるまいが」
「そのために、私どもが視ておりますので、出入りに不審があれば咎(とが)めまする」
さっき、外から戻ってきた男は、すれちがいに見かけた二人の被衣の女房を胸のうちで思い泛(う)かべたが、
(下手なことを云い出しては)と、口をつぐんで黙っていた。
大宿直の吏員は、
「では、裏門の方かもしれん」
つぶやいて駈け去った。
「何じゃろう」
――しばらくすると、その騒ぎは、波紋のようにひろがって、衛府や大宿直の室に止まらず、上達部や舎人たちも、総出になって、仙洞御所のうちの大きな事件となってあらわれた。
いや、それは御所の表方ばかりではない。
後宮の局々(つぼねつぼね)でも躁(さわ)ぎ立った。
「松虫のお局がいなくなったそうです」
「いいえ。松虫のお局ばかりでなく、鈴虫様も一緒に見えなくなったんですって」
「えっ、二人とも」
「どうしたのでしょう」
「上達部は、逃げたのだと申しています」
「ま!大胆な」
無事に飽いているここの女性(にょしょう)たちにとっては、自分たちの身に関わらない限り、それは眼をみはるに足る驚異であり、興味であった。