『仏心ともに悲しみともに喜ぶ』(中期)

仏さまの徳は、しばしば智慧と慈悲という言葉であらわされます。

智慧とは、私を照らしめざめさせ、心の闇を破るはたらきのこと。

慈悲とは、相手の悲しみや痛みを自分の悲しみや痛みとして、すべてを救おうとする心のことです。

この智慧と慈悲の具体的な歩みのすがたとして「方便門」いう言葉を天親菩薩が『浄土論』にあげておられるのですが、その「方便」という言葉の意義を曇鸞大師は

正直を方(ほう)という。
外己(げこ)を便(べん)という。
正直に依るがゆえに、一切衆生を憐愍(れんみん)する心を生ず。
外己に依るがゆえに自身を供養し恭敬(くぎょう)する心を遠離せり。

と、述べておられます。

「方便」というと、一般に「嘘も方便」という言い方がされることから「便宜的な手だて」という意味に用いられることが多いのですが、曇鸞大師は方便の「方」というのは「正直」ということだといわれます。

ここでの「正直」は、嘘をつかないということではなく「偏りがない、歪みがない」ということです。

註釈ではすぐに続けて「正直に依るがゆえに一切衆生を憐愍する心を生ず」とありますから、この言葉は「すべての生きとし生けるものに対して、あわれむ心に偏りがないという」という意味になります。

「偏り」というのは、自分の想いによって、あの人は嫌な人だと憎んだり、反対にあの人はとても良い人だといわゆる依怙贔屓(えこひいき)すること、あるいはあの人は尊い人だ、卑しい人だと差別することです。

そのような「偏り」のない心で人に接することを、曇鸞大師は「正直」といわれているのです。

振り返ってみますと、私たちの他をあわれむ心(憐愍の情)は、その人の状態、具体的にはその姿によっておこしているように思われます。

確かに、気の毒だな、哀れだな、かわいそうだなという憐愍の情は、その人の状態を目にすることによってわき起こってきます。

もちろんそれを否定することはできませんが、そういう状態を目にすることによってのみ起こる憐愍の情であるとするならば、それは優越感と重なり合っている感情だったりします。

そのため、自分より優れている人や恵まれた生活をしている人に対してわき起こってくることはありませんし、時にはあまりにも哀れで悲惨な状態を目にすると、憐愍の情ではなく嫌悪の情を起こすこともあったりします。

そして、そのような心は、自分と関わりの深い人ほど愛情を持って大事にしようとする一方、関わりの薄い人に対しては極めて冷淡であったりします。

具体的には、身内や親しい人の場合であれば見過ごしにはできないことであっても、赤の他人だと平気で見過ごしてしまえたりするのです。

このような意味で、「正直に依るがゆえに、一切衆生を憐愍(れんみん)する心を生ず」ということは、自分と関わりの深い浅い、その人の状態の良い悪いということを超えて、人間の事実そのものに応えようとする心だと言えます。

それは、人間の姿をあるがままに見るところに、この「正直」という姿があるということにほかなりません。

しかも、この正直の心は、「外己(げこ)」のあり方によってのみありうる心だといわれます。

「外己」とは、「己を外にする」ということ、つまり自分を計算の外におく心のことです。

自分の好き嫌い、都合の善し悪しを全く考えず、ただひたすら人びとのためのみを思い関わるすがたが、方便の「便」なのです。

ここでいわれる「関わる」とは、少しばかりの関係を持つということではありません。

自分の好き嫌い、都合の善し悪しで選んで、結局自身が傷つかない程度の関わりを持つというような希薄な関係性ではなく、相手とすべてを共にするということです。

これを本願の言葉でいうと

「もし生まれずば、正覚を取らじ(もし生きとし生けるものが浄土に往生できなければ、覚りをひらかない)」

という誓いの言葉と重なります。

仏さまの心が、「ともに悲しみともに喜ぶ」と表されるのは、まさに人生に迷い惑う私の姿を見いだされ、その姿を悲しまれると共に、その私を願ってくださる教えに目覚め、往生浄土の道を歩むようになった私の姿を喜んでくださるからです。

そして、それは常に私に寄り添い、私とともにましますことを物語っているのだといえます。