その三人の弟子たちは、皆、善信が京都からこの越後へ送られてくる途々(みちみち)の間に、善信の徳を慕って従(つ)いてきた新弟子たちであった。
大町の如道(にょどう)とか、和田の親性(しんしょう)とか、松住(まつずみ)の円貞(えんてい)などという人々も、善信と知りあう機縁を得て、みな旧教をすてて念仏門の帰依者になった。
彼のあゆむ所には、必ず彼の信仰が、何かの形でこぼれて行った。
それは、無心な風が、花粉を撒いて、土のある所には必ず次の花となる母胎を作ってゆくように、善信の身に、自然に備わっている力のようにみえる。
越前の新川村(にいかわむら)へ来た時には、こういうことがあった。
その土地の常願寺村には慧明院という寺の住持で、おそろしく問答好きな和尚があって、
(こんど、都の流人で、法然門下の善信という者が、ここを通るそうな)
と聞くと、
(そうか、かねて、法然房と善信の名は、聞き及んでいる。ここを通ったら、思い上がった念仏門の鼻ばしらをくじいてくれよう)
手ぐすね引いて、待ちかまえていたものである。
そして、善信の一行が、百貫橋という所へかかると、立ちあらわれて、種々(いろいろ)な問答をしかけた。
善信は、彼の稚気(ちき)を、おかしく思いながら、彼の過(あやま)った信念を、事ごとに説いて聞かせ、凡夫直入の真髄をかんでふくめるように諭(さと)してやると、和尚は、善信の輿の前にひざまずいて、
(世にはかかるお人もあるものか、まだ年ばえも若いのに)
と、衷心から恥じ入ったふうて、そこから越後の国府(こう)まで、一行に従(つ)いてきてしまったのみか、以来、配所のあばらやに侍(かしず)いて、ひたすら念仏教に参じていた。
これが――ちょうど今日は、相弟子の生信房といっしょになって、国府の町へ托鉢に出ている教順房と呼ぶ人物なのである。
彼が元いた越前宮崎の慧明院には、末寺があって、教順房に学んでいた三名の弟子たちはそこにいたが、師の教順房が、流人の僧に従いて、そのまま越後へ行ってしまったので、
(狐にでもつままれたのではないか)
と、後を追ってきた。
そして国府へ来て、善信につかえている師のありさまを見ると、彼らも、心服して、配所の庵室にとどまってしまった。
一人は、定相(じょうそう)、ひとりは石念(じゃくねん)もう一人念名房(ねんみょうぼう)といった。
こうして、ここの配所も、今では、善信をかしらにして、いつのまにか、七人の家族になっていたのである。
「おや」
定相は、竹窓へ、顔をよせて――
「とうとう、白いものが落ちてきたぞ、――雪が」
「ほ……」
と、ほかの二人も、顔をあつめて、
「ことしの初雪じゃ」
「それにしても、教順房と生信房どのは、なんとなされたことか、いつになく帰りがおそいではないか」
案じているところだった。
庵室の入口のほうで、物音がした。
そして外から帰ってきたらしい教順房の声が――
「どなたか、急いで、水をくだされ、――洗足(すすぎ)ではない、生信房どのが、怪我をなされたので、やっと抱えて戻ってきたのじゃ。――はやく一口、水を上げて下されい」