親鸞 机にふる雪 2016年2月4日

ひゅうっ――と風の翔けてゆくたびに、万樹は、身ぶるいをし、木の葉が、雨のように天地に舞う。

日が暮れると、裏日本の海は、漆(うるし)のような闇につつまれるが、月のある夜は、物凄い青味をもって、ここの廂(ひさし)の下から望まれるのであった。

「曇ってきたなあ」

弟子のひとりは、あまりの淋しさに、声を出してこういった。

庵室の中で、しきりと、さっきから燧打石(ひうちいし)を摩(す)っていたべつな僧が、舌打ちして、

「だめだ、いくら骨を折って、明りを燈そうとしても、こう風がひどくては、ひとときも灯が持っていやしない」

「やめたがいいだろう」

「でも……闇では」

「そのうちに、月がのぼるよ。

――月明りで間に合せておいたほうがいい」

「ところが、あいにくと、今夜は時雨雲だ」

「この庵(いおり)の北口が、垂れ薦(ごも)でなく、せめてどんなでもよいから板戸であったら、風も防げるし、夜もすこしは暖かに眠れるのだがなあ……」

「もう夏のころから、願書を出してあるが、あの依怙地(えこじ)な代官の萩原年景が、今もって、許すとはいわぬ。――これでは獄舎(ひとや)よりもひどい住居(すまい)じゃ」

「しっ……あまり声高に何か申されぬがよい。番人の耳へでも入って代官の年景に告げ口されたら、これ以上、酷い所へ移されようも知れぬ」

松の――皮の付いたままの柱に、粗雑な茅を葺(ふ)き、板壁は少部分で、出入口は裏も表も薦を垂れているに過ぎない。

雨でも降れば、廂の下の竹簀子(たけすのこ)は元よりのこと、奥の床まで吹きこむので、身の置き所もない庵室だった。

ここは、越後国の国府(こう)で、竹内(たけのうち)という土地だった。

都から遠く流されてきた流人善信の師弟は、もう二年の歳月をここに送っていた。

領送使右衛門尉兼秋(うえもんのじょうかねあき)は、善信の一行をここへ送りとどけると、国府の代官萩原年景へ、当然、その身がらを渡して、すぐ都へ還ったのである。

(――飛んだ厄介者が来おった)

年景は、つぶやいた。

越後の文化は、都と比較にならないほど遅れていた。

したがって、人間は粗野であり、学問はうとまれ、ただ、権力だけが、なによりも絶対的な威力をもってものをいう。

代官の萩原年景は、その権力をここで握っている男だった。

強慾でわがままで、都の顕官などよりは、はるかに威張っていた。

(なに、あれが噂にきいた、念仏僧の善信なのか。おれは念仏など大っ嫌いだ。――その大嫌いなおれの支配下へ流されてきたのはよくよく仏罰のあたった坊主。ずいぶん粗末に扱ってやれ、不愍(ふびん)などかけるとゆるさぬぞ)

初めからこういう調子の年景であったから、部下の態度はおよそ推して知ることができる。

――情けというようなものは、みじんも今日までかけられなかった。

で――そろそろ青黒い裏日本の冬の風が波立ってきても、彼のゆるしがないために、板戸一枚造ることができないのだった。

「……おお寒い。日が暮れると、とたんに陽気が変る。――今日は誰が、町へ托鉢(たくはつ)に出られたのか」

「生信房どのと、教順どののお二人じゃ」

「はやく帰ればよいにな。……わるくすると、今夜あたり、時雨でのうて、雪になるかも知れん」

人々は、灯りのない室(へや)の中に、風の音を聞いてかたまっていた。