輿には、墨黒々と、
太政官符(だいじょうかんぷ)越後流人
日野善信
と書いた札が打ってある。
善信は、その輿のうちに揺られていた。
戛々(かつかつ)と、おびただしい蹄(ひづめ)の音や、草摺(くさずり)のひびきや、その人馬の足もとから揚るほこりにつつまれながら――
(玉日……)と、心にさけび、さすがに、わが子の声が、まだ後ろに聞える心地がして、幾たびか、岡崎の林を振りかえった。
禁柵の外へ出ると、そこには、知縁の人々が、百人以上も待っていた。
輿に添って来た覚明や性善坊を介して、人々は、わっとむらがり寄って、
「善信御房っ」
「おすこやかに――」
「また来る時節をお待ちなされ」
「おさらば」
「おさらば」
輿を追って、無数の人が、手を振って見せる。
善信は、その群れに目礼していた、その一つ一つの顔に、さまざまなる過去の記憶を呼び起されつつ、
(おわかれだ)と、つよく思った。
月輪の老公から特に付けられた伊賀寺貞固(いがでらさだかた)と、朝倉主膳(しゅぜん)の二人は、騎馬で、前駆の万一に備えて、前駆のうちにまじっていた。
――万一というのは、叡山の荒法師や、無頼な僧のうちに、不穏な行動に出ようとする者があるという風聞が、この朝、伝わっていたからである。
(流罪は軽い。善信を途中で引きずり下ろせ。そして、ぞんぶんに私刑を与えてから、都から追ん出してやるがよろしい)
そういう煽動をしている者があるという専らな風説なのだ。
――しかし、官の警士や、領送使の侍や、そのほか、善信の徳をしたう人々が、輿の見えないほど取り囲んで、その上にも、進んでゆくほど、五十人、七十人と途々(みちみち)人数が増してゆくので、たとえそういう計画があったにせよ、手の出せる余地はまったくなかった。
岡崎から粟田口へ――そして街道を一すじに登って蹴上(けあげ)の坂にかかるころは、もう、道路のかきも、樹々の間も、人間で埋まっていた。
民衆は黙然と、眼で輿を見まもっていた。
だが、心のうちでは、念仏を思わないものはなかった。
声に出せないので、胸のうちでとなえていた。
逢坂山の関へかかると、追立の役人たちは、役目をすまして、引返した。
都からついて来た多くの人々も、思い思い別れの言葉を残して戻ってゆく。
大津へ着く。
――船は帆を寝せて一行を待っていた。
性善坊も、民部も、すべての側近者もまた、いよいよここで師を捨てて帰らなければならなかった。
だが、太夫房覚明だけは、とこまでも師の善信に附随してゆきたいと、役人たちへ言い張って、とうとう願いを通してしまった。
「生信房は、どうしたろう」
彼は、初めから、師の給仕人として、お供をゆるされていたはずなのに、その姿が見あたらないので、人々は、いぶかっていた。
領送使の侍たちは、
「帆をあげい」
猶予をゆるさなかった。
「さらば―さらば―」
呼び交わす船を陸(おか)との間は、見るまに波の距離がひろがってゆく。
――すると、笈(おい)を背にして旅支度をした生信房が、息をきって後から追いついてきた。
彼は、後に残った裏方の玉日をなぐさめていたために、輿の列におくれたのであった。
「待ってくれっ、オオウイ、その船待ってくれっ」
生信房は、ザブザブと腰の辺まで水に入って、湖をすべってゆく流人船へ手を振りあげた。