親鸞・氷雪編 2016年1月28日

鐘は、鳴りつづいていた。

その――一鐘一韻(いっとういちいん)ごとに、善信は、青蓮院の鐘楼に立っている弟の尋有の気もちを、胸にうけ取っていた。

玉日は、そっと、

「抱いてやって下さいませ」

と、房丸を良人にわたした。

善信は、子を抱いて、

「オオ」と、無心なその顔に、頬ずりを与えた。

「――すこやかに、よい和子(わこ)に、育ってゆけよ。父は今朝、遠い国へ旅立つが、心はいつも、そなたの上に、父としてあろう」

その間に、戸外(おもて)のほうは騒(ざわ)めいていた。

室内にあった人々も、すべて戸外へ出ていた。

「時刻っ」

と、大きな声が、草庵の門で聞えて――

「時刻でござるっ。疾(と)くお立ちなされ」

ふたたび荒々しい声音(こわね)がひびく。

迎えの武者たちの群れだった。

馬蹄(ひづめ)の音や、草摺(くさずり)の音が、にわかに、仮借ない厳しさをそこに漲(みなぎ)らせ、

「まだかっ」

「なにを猶予」

などと、雑言を吐きちらしているのも、手にとるように聞えた。

流人護送の追立役、小槻蔵人行連(おつきのくろうどゆきつら)は、

「退(の)けっ」

と、駒のまま、馳せつけて、鞍の上から草庵の墻(かき)越しに、

「善信っ。――いや今日よりは俗名の日野善信(ひのよしのぶ)に申し入れる。はや、卯の刻限であるぞ。妻子の別離に暇どるのをのめのめ待ってはおられぬ、はよう、支度いたせっ」

善信は、同時に、

「おう」と答えて、表へあらわれた。

門には、罪人の張輿(はりごし)が舁(か)きすえてあり、領送使の右衛門尉兼秋(うえもんのじょうかねあき)の部下が、

「これへ召されい」

万一を固めるのか、善信の左右を鉄槍や刀の柄で囲みながら、そういった。

「ご苦労です」

善信は、官の人々へ、静かに一礼して、輿のうちへかくれた。

すすり泣く声が、その時、誰からともなく流れた。

――嗚咽する者もあった。

粛(しゅく)とした一瞬に、

「輿を上げい」

と、右衛門尉兼秋がいう。

玉日は、われを忘れて、

「もしっ……」

房丸を抱いて、輿の下へよろめいた。

「ひと目、もうひと目」

「邪魔だっ」と、官人たちは罵って、

「歩め、歩め」

と猶予する輿を急きたてた。

房丸が――母のふところでいつまでも泣いていた。

――その声をうしろに、どやどやと人馬の列は草庵を離れて行く。

性善坊や木幡民部や覚明、弟子の人々も、遠くまでは許されないまでも、せめて行ける所まで、師のおん供を――とその後から慕って行った。

だが、生信房ひとりは、

「裏方さまが」

と、後へも、心をひかれて、泣きぬく房丸をあやしながら、自分も共に泣いている玉日の姿を見ると、そこを去りかねていた。

「さ、裏方さま。お嘆きはさることながら、それでは、師の房のお心にもとりまする。内へお入りあそばして、生信房と一緒に、静かに念仏を申しましょう」

手をとって、彼は、涙の母と子を、庵(いおり)のうちへ誘い入れた。

――もう大風の後のように寂として、どの部屋も、空虚を思わせる岡崎の家だった。