そこへ通ってきた老公の顔も、決して暗くなかった。
「おお」
「おう」
見あわせる顔ごとに、言外の感慨が、いっぱいに胸へせまってくる。
善信は、あらためて、
「なんのご孝養もせず、今日まで、お舅君には、わずらいのみおかけ申し、その儀ばかりは、玉日とも、申し暮しておりました。その上、かような御命を下されて、越路へ旅立つからには、ふたたび善信が、生命のあるうちに、朝夕(ちょうせき)の御見(ぎょけん)も望み得ぬことかと思われます。
なにとぞ、老後をいとい遊ばされて、善信がことは、心ひろく、なるがままに、世の波へおまかせ置き下さりますように。――また、玉日が身と、房丸が身とは、かように勅勘を蒙(こうむ)って流さるる私が、配所へ連れ参ることもかないませぬよって、何ぶんともに、ご不愍(ふびん)をおかけ賜わりませ」
月輪の老公は、黙然と、何度もうなずいて、聞くのであったが、
「玉日や、房丸が身は、わしが手にひきとって、守ろうほどに、必ず、お案じなさらぬがよい」
といった。
善信は、にっこと笑って、
「それをうかがって、私も、なんの心がかりもありませぬ」
「ただ、おん身こそ、気候風土の変る越路へ下られて、身を害(そこ)ねぬように」
「お気づかい下さいますな、幸にも、善信は、幼少から身を鍛えておりますほどに」
「む。……おん身が歩まれてきた今日までの艱苦(かんく)の道を思えばの」
「このたびの流難などは、ものの数でもございませぬ」
思わず話し込んだことに気づいて――
「玉日」と、善信は妻をかえりみ、
「支度いたそう」といって、奥へ入った。
一室のうちで、善信は衣を脱いだ。
朽葉色の直垂衣(ひたたれ)に着かえ、頭には、梨子打(なしうち)の烏帽子を冠(かむ)る――。
玉日は、その腰緒を結んだり、持物をそろえて出したりしながら、さすがに涙があふれてきてならなかった。
こうしている間が、二人だけの別れを惜しむ間であったが、何も、いえなかった。
「……お健やかに」
と、だけいって、良人の足もとへ、泣き伏した。
「房丸をたのむ」
「はい……」
「お舅君へ、わしに代って、孝養をたのみますぞ」
「はい」
「配所からでは、便りもままにもなるまい。たとえ幾年(いくとせ)、便りがのうても、この善信には、御仏の加護がある、必ず案じぬがよい。……憂いの興る時は、念仏の怠りを思え。越路の空で善信がいう念仏に、心をあわせて、おもとも、都にあって念仏を申されよ。毎日を法悦のうちに、楽しんで送られよ。
――それが善信にとっては、なによりもおもとへたのんで置くことじゃ」
――遠く、花の神楽岡(かぐらがおか)の空を越えて、その時、鐘がなった。
「お……卯の刻」善信は思い出した。
いつぞやここへ別れに来た時の尋有のことばを。
――弟が撞く青蓮院の鐘の音を。