雪に明け、雪に暮れる日ばかりがづづいた。
灰色の空には、いつ仰いでも、白いものが霏々(ひひ)と舞っていた。
小丸山の庵室は、万丈の雪の底に丸く埋まっていて、わずかに朝夕炊煙が立つので、そこに人が住んでいることが分る――
しかし。
北国特有の月が、ふと、吹雪の空に冴える夜など、ふと、そこから朗々と、無量寿経の声が聞えることがある。
親鸞が起っているのだ。
弟子たちも、それに和して、寒行をしているのだった。
建暦(けんりゃく)元年の十一月――ある日の昼間であった。
めずらしく、雪がやんで、青い空が見えていた。
「オオ、麓から、見馴れぬお方が見える」
万野と鈴野が、こういいながら佇んでいた。
――と、藁沓(わらぐつ)を穿(は)いた三名の武士が、息を喘いで登ってきたのである。
萩原年景の家来だった。
「鈴野どの!万野どの!房の方々に、はやくお告げしてあげなされ、吉報がある」
と、呶鳴った。
「え……吉報とは」
「お勅使だ。――お勅使が着いて今すぐこれへおいでなさる」
「えっ、御下向ですか」
ふたりは、転(まろ)び込むように、奥の房へ駈けこんだ。
年景の家来たちは、表へ廻って、庵室のうちへ春を告げるように、大声でいって廻った。
「――皆さま皆さま。お欣びあれ、勅使岡崎中納言範光卿が御下向なされ、主人の年景が案内してただ今これへ見えられましょうぞ」
そういって、雪を蹴立てながら、人々はすぐ麓へ引っ返して行った。
伝え聞いて、
「さては御赦免の宣下」
と、房の人々は、にわかに色めき立った。
西仏などは、子どものように雀(こ)躍りして、
「御赦免じゃ、御赦免じゃ」
と、はしゃぎ廻った。
まだ何も知らなかった生信房は、西仏があまりはしゃいでいるので、
「この、おどけ者」
と背をどやした。
だが、その理(わけ)を聞くと、
「えっ、御赦免の勅使が?……そ、それはほんとか」
と、どっかと坐ってしまって、うれし泣きに、泣き出した。
静かなのは――依然として親鸞のいる――奥の一室であった。
勅使の一行が通ってきた北国の駅路(うまやじ)には、綸旨下向のうわさが、当然、人々の耳目からひろがった。
そして、念仏門の栄えが謳歌された。
愚禿親鸞言上(ごんじょう)
のお請状(うけじょう)の一通をおさめて、勅使の岡崎中納言の一行は、その翌日、すぐ帰洛の途についた。
やがて、そのよろこびのうちに、建暦二年の初春は来たのであった。
――こういう新春を迎えようとは、親鸞をはじめ、誰も予測していない年であった。