親鸞 春は南へ 2016年6月28日

雪に明け、雪に暮れる日ばかりがづづいた。

灰色の空には、いつ仰いでも、白いものが霏々(ひひ)と舞っていた。

小丸山の庵室は、万丈の雪の底に丸く埋まっていて、わずかに朝夕炊煙が立つので、そこに人が住んでいることが分る――

しかし。

北国特有の月が、ふと、吹雪の空に冴える夜など、ふと、そこから朗々と、無量寿経の声が聞えることがある。

親鸞が起っているのだ。

弟子たちも、それに和して、寒行をしているのだった。

建暦(けんりゃく)元年の十一月――ある日の昼間であった。

めずらしく、雪がやんで、青い空が見えていた。

「オオ、麓から、見馴れぬお方が見える」

万野と鈴野が、こういいながら佇んでいた。

――と、藁沓(わらぐつ)を穿(は)いた三名の武士が、息を喘いで登ってきたのである。

萩原年景の家来だった。

「鈴野どの!万野どの!房の方々に、はやくお告げしてあげなされ、吉報がある」

と、呶鳴った。

「え……吉報とは」

「お勅使だ。――お勅使が着いて今すぐこれへおいでなさる」

「えっ、御下向ですか」

ふたりは、転(まろ)び込むように、奥の房へ駈けこんだ。

年景の家来たちは、表へ廻って、庵室のうちへ春を告げるように、大声でいって廻った。

「――皆さま皆さま。お欣びあれ、勅使岡崎中納言範光卿が御下向なされ、主人の年景が案内してただ今これへ見えられましょうぞ」

そういって、雪を蹴立てながら、人々はすぐ麓へ引っ返して行った。

伝え聞いて、

「さては御赦免の宣下」

と、房の人々は、にわかに色めき立った。

西仏などは、子どものように雀(こ)躍りして、

「御赦免じゃ、御赦免じゃ」

と、はしゃぎ廻った。

まだ何も知らなかった生信房は、西仏があまりはしゃいでいるので、

「この、おどけ者」

と背をどやした。

だが、その理(わけ)を聞くと、

「えっ、御赦免の勅使が?……そ、それはほんとか」

と、どっかと坐ってしまって、うれし泣きに、泣き出した。

静かなのは――依然として親鸞のいる――奥の一室であった。

勅使の一行が通ってきた北国の駅路(うまやじ)には、綸旨下向のうわさが、当然、人々の耳目からひろがった。

そして、念仏門の栄えが謳歌された。

愚禿親鸞言上(ごんじょう)

のお請状(うけじょう)の一通をおさめて、勅使の岡崎中納言の一行は、その翌日、すぐ帰洛の途についた。

やがて、そのよろこびのうちに、建暦二年の初春は来たのであった。

――こういう新春を迎えようとは、親鸞をはじめ、誰も予測していない年であった。