ある製薬会社のホームページにあるエッセイの中に次のような文章があり、それを通して「悲しみを通して見えてくる世界」を伺うことができました。
タイトルは
「癌てね、すごいと思うねん。私がちゃんと生きてゆくために尊い教えをくれるスーパー師匠かもしれへん。」です。
まずはそのまま引用し、ご紹介させていただきます。
(引用)
健康な人って傲慢なんやなって、病気になってから気がついたの。
元気な体と、一日の時間が普通にちゃんとあるから、「明日にしよ」「いつでもええやん」とか「いずれ、そうするつもりで、今は準備してる」とかって、私も言ってたし、みんな言わはるでしょ。
明日が、疑いなく、今の延長線上で来るって…誰がそんなん知ってるんやろね?
身体に無理しても、自分は大丈夫って。毎日接待のお酒飲んでても、大丈夫って。自分の健康って、苦労しなくても普通に手に入るって思ってたの。
癌になって、「死ぬかも」って突きつけられて初めて、「生きる」ってことを考えた。考えることができた。
それくらいハードに叩かれないと、人って、生きることの意味とか、ちゃんと考えないね。
「生きる」と対極にある「死ぬ」ってこと、突きつけられてからしか、まじめに生きようって思われへんかった。
生きたいって、強く思うことが出来なかった。
癌は、私の師匠。癌になる前の私は、へなちょこの、いい加減の、ちゃらちゃら女やったと思う。
おかあさん、おとうさん、みなさん。本当にごめんなさい。
癌になって、ずっと心配かけ通しやけど、今は“再々々発”もなんのその。奇跡の末期がん患者として元気に(?)まっとうに、暮らしてますから、安心してください。
癌になってから、ちょっとは優しくなれたと思います。
彼氏も出来てんよ。私の癌の事知っても、「そんなん、その場その場で考えたらいいやん」て、優しいのか、いい加減なんか(笑)
でもね、昔のちゃらちゃら女の私やったら、この人の優しさも分からなかったわ。昔は彼氏を作るのも、見かけや身分やお金持ちやとかね、そんなことで判断してたかもしれないね。
癌が鏡のように、人の本当の姿とか、自分の本当の心とかを映して見せてくれたと思っているの。
怒りん坊の上司さま、自分の地位とか名誉とかにしがみつくのは、自分に自信が無いからやね。だからいつも怒ってる。いいよ、怒っても。私、別に悪くないけど、怒られてあげる。
私、職場のあの子のこと、何であんなに嫌いだったんやろ?そうか!私、あの人が羨ましかったんや。
大して仕事してるようでもないのに、みんなに褒められてて可愛がられてるように見えて、なんで私じゃないのって、羨ましくて腹立ててたんや。見てたら、細かい気配りしてるやん。ほんまに良い子なんやわ。
癌が見せてくれる、本当の人の姿とか心とかは、健康な頃の私には何故みえなかったんやろね。
今日は、残暑の日差しがちょっと暑いけど、風が吹いたら良い気持ち。秋の気配やね。
季節って、すごいね。癌の告知を受けた年の、秋の紅葉がルビーみたいに鮮やかやったのを思い出すわ。それまで、観光地とか行く時しか、あまり気がつかなかったの。仕事場のビルの色と、電車の茶色くらいしか見えてなかったかな?
山も空も雨も風も雪も、緑も赤も黄色も…今は毎年の彩が楽しみ!
癌は私のスーパー師匠。
だからね…お母さん、怒らんとってね。健康な頃の私には、今は戻りたくないの。
たとえばこの癌が治っても、この感性を無くさないように、気をつけるね。
だから、もう少し末期癌で修行するわ。
(ここまで引用)
この文章をかかれた裏には、想像を絶する悲しみがあったろうと思いますし、お母さんを気遣われて書かれたものかもしれません。
しかし、彼女が癌という悲しみを通して出会われた世界を鮮明に教えてくださいました。
心動かされたエッセイでした。
悲しみを通さないと見えない世界について、仏法ではこのように説きます。
まず彼女と私は何も違わないと教えてくださいます。
彼女は末期がん、私は健康体。
普通に見たらまったく違うと思うのですが、私の命が彼女の余命より長く生きる保証はどこにもないのです。
彼女だけでなく私も老病死を抱え、いつ死んでもおかしくない命を生きているのであって、少しだけ彼女の方が余命と言う情報量に長けているだけなのです。
生きとし生きるすべてのものは、みんな命の危機に瀕していると説くのが仏法です。
つまり、私を含めすべての人が生老病死の深い悲しみを背負っていて、彼女のように私の世界もキラキラ輝くはずなのです。
しかしそうならないのは、私が癌になっていないからではなく、煩悩に覆われて鈍感になっているからなのでしょう。
浄土真宗は阿弥陀如来さまにお救いいただくみ教えです。
阿弥陀如来さまは分け隔てなくそのすべての人の悲しみを包み込んでくださいます。
そして「あなたの命は、どんな死に方をしても決して不幸になる命ではありませんよ。
私がお浄土という場所に生まれさせ、仏にしますから、安心してください。
それがもし、大切な人と別れることになったとしても、お浄土でまた会えますから。
安心してくださいね。」といつも呼んでくださり、苦しみ悩みから救ってくださいます。
悲しみを通してみえてくる世界はあるとおもいます。
しかし、その悲しみを全て救いとるという阿弥陀さまの世界がさらにあることを味わっていきたいと思います。