『いのち恵まれ 今年も除夜の鐘』(中期)

 早いもので、平成28(2016)年も、残すところあと半月ほどになりました。

以前、先輩が

「不思議なもので、歳を重ねていくと、年齢が30の位から40の位、40の位から50の位へと10の位が1つ上がる度に、1年の進む速さがどんどん加速していくような気がする。同じ10年でも全然違う感じだ」

と言われたことがありました。

その時は、「そんなものかな…」と思いながら聞いていたのですが、10の位が1つ上にあがると、1年1年の過ぎる速さが加速度的に増していくような気がして、「確かに!」と実感することです。

ところで、仏教では「どのようなものも全ては縁によって起こり縁によって変わっていく」という真理を「無我」という言葉で教えています。

「我」とは「常・一・主宰」なるもののことです。

「常」とは常住、永遠に変わらないということ。

「一」とは単独、そのもの自身の力だけで単一に存在しているということ。

「主宰」とは支配、そのもの自身で自らのあり方を決定して行くことのできる存在ということ。

したがって、「我」とは常住である単独者として何かを支配するものという意味です。

そこに「無」という言葉を冠している訳ですから、そのようなものは存在しないということが「無我」ということになります。

 つまり、すべてのものが変化する無常なるこの世界においては、常住なるものは存在せず、それぞれが関係し合うことによって互いが存在しているこの世界においては単独ではありえず、何もかも支配して自分の思いのままにできるものもいないということを「無我」という言葉で明らかにしている訳です。

 すべては、縁によって起こり縁によって変わっていくのですが、この縁とは賜るものであって自分の意思によって決めることはできません。

 したがって、私たちは人生における一瞬一瞬のすべてを本当にかけがえのない時として、実は賜っているのだということが思われます。

 そうすると、私のいのちは次の一瞬さえ分からないという形でいまを賜って生きているのであり、その「いま生きている」という事実のほかに、私のいのちの事実はないのだということが知られます。

 にもかかわらず、私たちは自分のこのいのちは自分のものであり、決して「恵まれている」などと思うことはありません。

そのため、自分が今ここにこうして生きていることの意味が本当にはっきりと頷けたり、日々「生きている」と実感できないままに一日一日を漠然と生きていたりするのです。

 本来、人間は「所在」、具体的にはそこに自分がいるという意味を求める存在です。

したがって、私が今ここにこうして生きているということに明確な意味が与えられている、そういう関わりが開かれているという時に、自分の存在意義を実感することができます。

そこで、「あれがほしい」とか「これをしたい」などと、自分の欲望を満足させるためにあれこれ励んだりするのです。

 その一方、所在が与えられない時や所在を見出せないままでいると、私たちは自分が生きていることの意味を見失ってしまいます。

そうなると、私たちは生きている喜びも張り合いも持てないままに、ただ何となく空しく日々を過ごしていくあり方に陥っていくことになります。

 なぜ、私たちは「所在」を見出せないと、そのようなあり方に陥っていくのでしょうか。

それは、私たちの中に、私の思いの満足よりももっと深い「いのちの願い」というものがあるからです。

そのいのちの願いを仏教では「情願」といいます。

この情願を満足させるということが、生き甲斐とか生きていることの喜びを賜るということになるのです。

 けれども、私たちは日常生活の中で、自分がそういう所在を求める存在であるということは思いもしません。

 日々の生活においては、「あれがほしい」「これがしたい」「こうなればいいのに」「ああなれば良いのに」という思いが、常に私を動かしています。

 しかしその根っこには人間としてのいのちの願いがあるのです。

 そのいのちの願いというものを、私たちが本当に求め尋ねていくとき、はじめて今自分がここにこうして生きていることの意味にはっきりと頷くことができるように思われます。

 

 日々、追われるように生きていると、なかなかそのことに心を寄せることは難しいものですが、一年の終わりにあたり、今年一年を振り返ると共に、いのちを恵まれながらここまで生きてきたことの有り難さに深く感謝しながらこの一年を終えたいものです。