時の流れははやいもので、気がつけば今年も残すところわずかとなってきました。
あなたにとって、今年はどのような一年だったでしょうか。
さて、毎年大晦日の夜には、仏教寺院で除夜の鐘が撞かれます。
全国各地で見られるこの光景は、日本の暮れの風物詩ともいえます。
周知のとおり、除夜の鐘は108回撞かれますが、この108という数にはいろいろな説があります。
人間の煩悩の数を表すという説、1年間を表す(十二カ月、二十四節気、七十二候:合計で108)という説、四苦八苦(4×9+8×9:108)を表すという説などですが、いずれにせよこの数は人間の煩悩を表し、その煩悩を取り除くために108回撞くというのが、一般的なとらえ方のようです。
ところで、私たちの煩悩というのは、大晦日に鐘を撞くことで簡単に取り除かれるようなものなのでしょうか。
今の時期、早朝外に出ますと庭は落ち葉でいっぱいです。
箒でさっぱりと掃き清め、すっきりしたのも束の間、ちょっと風が副とまた葉っぱが舞い落ちてきます。
掃いても掃いてもきりがありません。
このように、除いても除いても、すぐに私たちの心身に満ちてくるのが煩悩というものの本質です。
親鸞聖人は、人間のことを「煩悩具足の凡夫」と示しておられます。
分かりやすくいうと、人間はすべての煩悩を具えた存在だということです。
そのようなことから、「煩悩に目鼻を付けたのが人間だ」ともいわれたりします。
この「凡夫」について、親鸞聖人が『一念多念文意』の中で
「凡夫」というのは、わたしどもの身にはあるがままのありようを理解できないという、最も根本的な煩悩、迷いの根源が満ちみちており、欲望も多く、怒りや腹立ちやそねみやねたみの心ばかりが絶え間なく起り、まさに命が終ろうとするそのときまで、止まることもなく、消えることもなく、…
と述べておられることから知られるように、残念ながら私たちの煩悩というものは、大晦日に鐘を撞いたくらいのことでは、とうてい除かれるようなものではありません。
では、私たちはいったいどのような思いで除夜の鐘を撞けば良いのでしょうか。
ひとことで言えば、やはりそれはこの一年を振り返ると、こうしてここまで生きて来られたことに対する「感謝の思い」ということに尽きるのではないでしょうか。
茶道の世界では、12月になると決まって茶室に「無事」の掛け軸をかけます。
これは、臨済宗の開祖・臨済の言葉ですが、毎年この掛け軸を目にする度に、今年一年にあった様々なことが思い起こされます。
今年も世界各地で、戦争・テロ・紛争・災害など、人間に大きな苦しみや悲しみを与えるできごとが頻発しました。
また、それぞれの人生においても、大切な人との別離や病気、事故など、つらく悲しいできごとがあられたかもしれません。
「一寸先は闇」という言葉がありますが、どれほど科学が発達しても、私の人生には一分一秒後に何が起こるか分かりませんし、また何が起こっても不思議ではありません。
そのような予測不能なこの世の中で、こうしてここまで何とか過ごしてこられたということは、まさに感謝してもしきれないほどの大きな恩恵の中に生かされてきたということなのではないでしょうか。
私を支えてくださったすべてのものへ…、感謝の思いをしみじみとかみしめつつ、新しい年を迎えたいものです。