親鸞 2016年12月19日 

「――いってください、後生です。女房へ下げるその手を、どうして御仏さまには下げられないのでござんすか」

「お……お吉」

「いってくれますか」

平次郎は、突っ張っていた肩を、がたっと落して、

「……いう、いう……」

と、顔をおおった。

「オオ、お前様」

お吉はうれしさに、われを忘れて、良人の手を引っ張った。

 二人は、かがやく灯(あかし)へ向って、並んで坐った。

善光寺如来の分身が、新らしいお厨子の内に、皎々(こうこう)と仰がれた。

 平次郎は、ふと、羞恥(はにか)むように、妻のほうを見てたずねた。

「……だが女房、なんというて、お詫びをいうたらよいのか」

「さ……」

彼女は考えて、

「やはりただ、なむあみだ仏――と、そう仰っしゃればようござんす」

「それだけでよいのか」

「ええ」

「たったそれだけで、おれが今日までやったいろんな悪いことが、みんな、お詫びになるだろうか」

「先の願いにもなりまする」

「では……」

ふたりの掌がいっしょに揃って、合掌した。

 燦として、外陣内陣の仏燈が、いちどに、光を改めた。

「なむあみだ仏――」

「なむあみだ仏――」

「おお、おいいなされた」

お吉のほほ笑みは、さながら、菩薩の笑みに似ていた。

平次郎は、やめなかった。

「なむあみだ仏、なむあみだ仏――」

ぼろぼろと涙がやまない。

「もう、ようござんす、ここは、家ではございませぬから」

心から、笑って、夫婦は急に、親鸞のうしろへ退がった。

 城主も、侍たちも、二人をながめている間、平次郎の過去の罪を考えている者はなかった。

ただ美しいものを見るように見惚れていたのである。

藤木権之助がすすんで、

「追ってお上よりも、何かのお沙汰があろうという仰せであるぞ。ようお礼を」

と、二人のそばへ来てささやいた。

 平次郎は、あわてて、武士たちの居ならんでいるほうへ頭を下げた。

それは、家来たちの席であると注意されて、急いで、城主のほうへまた、お辞儀をし直した。

 梵鐘が鳴り出した。

 人々は、座を立つ。

 供養の式は終ったのである。

 だが、群衆はまだ去らないで騒いでいる。

御堂ヘ向って前栽の両側に、これから、城主と親鸞とが手ずから鍬(くわ)を持って、双つの樹を植える式があるというので――。

 その樹は、一方に柳樹、(りゅうじゅ)、一方には菩提樹であった。

 下野の城主国時と、親鸞とは、大地へ下り、東西にわかれて、鍬をとった。

 植えられる樹のうえに、もう無数の禽(とり)が舞って来て、浄土の歌を囀(さえず)っていた――。