唯円房――
唯円房――
いくたびも平次郎は口のうちでくりかえしてみる。
救いの師、親鸞に名づけられて、きょうから在家の弟子となった自分の名を――。
お吉も、共に、
「よい名でござります」
と、よろこびにかがやく。
平次郎は、改まって、
「お吉よ」
と、やさしく呼んだ。
「あい」
「おまえのお蔭だ、おれがこうなって生れかわったのは――」
「勿体ない」
「二つにはまた、死んだ児のおかげだ。――こうして、御仏に導かれる縁を作ってくれたのは」
「ほんに……」
「また、仲ようして、よい子を生もう、お吉、生んでくれ」
「はい」
「そして、きのうまで、おれのしたことはすべて忘れてくれ。――きょうからは、生れかわった唯円房、きっと、人いちばい働いて、貧乏も取り返すぞ、おまえにさせた苦労も埋め合せしてやるぞ」
「そのおことばだけで、私はもう、なんといってよいか分りません。……私も、きょうの暁、いちど死んだも同じ体です。これからは、唱名一念、夫婦して、御仏さまへおつとめをいたしましょう」
「オオ、お上人様が手ずから植えて――やがてあの御堂の両側に伸びてゆく――柳と菩提樹のようにな」
*
九条殿の執奏(しっそう)によって、弟子の真仏房がはるばる、都から奉じてきた、後堀河の帝(みかど)の勅額は――
専修阿弥陀寺
と下賜(くだ)しおかれた。
今ものこる高田専修寺はこの寺である。
――親鸞が稲田にあっての農田生活十年のあいだに、こうして建立された伽藍なのであった。
もっとも、その十年のあいだには、ここばかりではなく、親鸞の師弟が杖をついた方――たとえば越後、信州、上州、武州などの各地にも、蒔かれてあった胚子(たね)が、春に会ったように、蔟々(ぞくぞく)と芽となり、ふた葉となり樹となり花となって、念仏曼荼羅の浄知を、各地に生み殖やしても行った。
それは、あたかも大地が植物を伸ばして行くあの自然の力にも似た必然の勢いで――。
この勢いと時代のまえには、多年念仏門を呪詛していたあらゆる呪詛も、声をひそめてしまった。
権力も、それには従うほかはなかった。
だが――親鸞も、人間である、いつの間にか、よいお爺さんになってきた。
もう六十にちかいのである。
そしてご、六人の子どもたちの父であった。
――その以前に、前の玉日の前とのあいだに生(あ)げた一つぶ種の範意は、京都で、父の顔を知らずに亡くなってしまったけれど――とにかく彼は今、一個の家庭の父としても幸福であった。
しかし、彼は、その幸福の中に、綿帽子をかぶって、屈(かが)んでしまう人でなかった。
体力もまだ旺(さかん)なものだった、異常な精神力は、六十ちかいとはどうしても、見えないくらいな艶のいい皮膚にもみなぎっている。
「雪が解けたら、また教化(きょうげ)の旅に出かけたいの。――信州へも、越後へも。――久しぶりに東海道も遊行(ゆぎょう)してみたい」
ことしの冬は、云い暮している。
この分では、まだまだ裏方の朝姫との間に、次の嬰児(あかご)が二人や三人は生れない限りもない。