さつまの真宗禁教史 1月(中期)第一章 真宗の展開と禁制政策

1.巷間に流布する真宗禁制理由の諸説

鹿児島藩はなぜ真宗を禁止したのか、その理由を明示した記録はありません。

すでに禁止政策が実施されている江戸時代からその理由は見失われ、諸説が流布していました。

いま、その五つの説を年次の古いものから紹介しておきましょう。

①後小松天皇勅許説

島津氏の支族からでた禅僧岩屋真梁が、南北朝合一に尽力した功績により後小松天皇の勅許をえて、薩摩国の真宗を国禁にした、というのです。

後述のように薩摩地方に真宗の教線が伝播したのは室町時代の本願寺八代蓮如の頃であり、南北朝時代に真宗が伝わっていたとは考えられず、この説は否定されるべきものです。(『鹿児島外史』)

②又八郎母呪詛説

島津家十八代家久(天正四年・1567−寛永十五・1638)とその弟の又八郎は共に元和二年(1616)の生まれであったが、又八郎がわずか五カ月年少であったので,継子になることができなかった。

そこで又八郎の生母が光久を呪詛した。

その結果、光久は疾足した。

この又八郎が一向宗徒であった為に、一向宗を禁止したという説です。(『盛香集』)

③伊集院幸侃連座説

島津家の重臣伊集院幸侃(忠棟)が京都伏見において忠恒(島津家十八代家久)に手打にされた。

この後、幸侃の嫡子忠真が反乱を起し、いわゆる「庄内の乱」(後述)へと展開したのであった。

そしてこの伊集院幸侃が一向宗徒であったがために真宗が禁止されたという説です。(『盛香集』)

あと二つの説は次回ご紹介いたします。