平成29年4月法話 『あたりまえのことができる 仕合わせ』(中期)

「必要なものは地味に見える」と言われます。

例えば、毎日食べているご飯の色が、赤・黄・青・緑・ピンク・オレンジなどで色鮮やかに彩られていたとしたらどうでしょうか。

一回くらいなら良いかもしれませんが、毎日となるとすぐに飽きたり嫌になったりするかもしれません。

シンプルな白だからこそ、何十年でも食べ続けることができるような気がします。

また、水は透明ですし、空気は目に見えもしません。

目には見えませんが、空気がなければ私たちはすぐに息が絶えてしまいますし、自然災害などの報道を見ていると、被災された人たちが断水したことによる不便さを口にしておられる光景をしばしば目にします。

けれども、日頃私たちは息をしながら空気に恩を感じることもなければ、朝起きた時に顔を洗いながら水に感謝の言葉を口にすることもありません。

それは、きっと空気や水があるのは「当たり前」と思っているからではないでしょうか。

特に意識しなくても、息ができることも蛇口から水が出ることも「当たり前」と思っているので、有り難いと感じることはないのだと思います。

ところが、災害などによって水の供給が止まると途端に困り果て、初めて水の有り難さに気付いたりします。

このように、必要不可欠なものほど日頃は目立たなかったり地味に見えたりするのですが、それが当たり前でなくなった時にようやくその価値や大切さに気が付くことができるものです。

このような「気付き」は、自身が老いることによっても体験します。

お釈迦さまは、「この世は苦に満ち満ちている」と説いておられます。

「苦」とは「自分の思い通りにならない」ということですが、その一つに「老」があります。

「老」とは、若い頃は「若さが失われ年をとること…」と、漠然と思っていたのですが、それなりに年を重ねてくると、「あ~、こういうことか」と思ったりするようになりました。

それは「当たり前であったことが当たり前ではなくなる」という体験を通してです。

例えば、腕時計を見る時、以前は目から15cmくらいの距離で見ていたのですが、年を重ねるにつれて次第に距離が遠くなり、今では若い頃よりさらに10cmくらい離さないと見辛くなってきました。

あるいは、眼鏡をかけているのですが、小さい文字は眼鏡を外した方が見やすくなったりするなど、いわゆる「老眼」になって初めて、それまで当たり前と思っていたことが「当たり前ではなかった」ということに気付いたりしました。

また、若い頃は少しくらい無理をしても、一晩寝れば翌朝は元気よく目が覚めたものですが、最近はなかなかそのような訳にはいかなくなりましたし、聴覚の方も子どもの頃に聴こえていた高い音域は20歳代半ばから聴こえなくなってしまっているのだそうです。

時折「今朝、目が覚めた時、嬉しかったですか」と尋ねると、「今日は何か良いことのある日ですか」と問い返されることがあります。

なぜ、私たちは毎朝目が覚めた時に「生きてる~!」と歓喜の叫び声をあげないのでしょうか。

それは、朝目が覚めることを「当たり前」と思っているからにほかなりません。

けれども、私たちは生まれた以上、結果としていつか必ず死ぬのですが、死の縁は無量で、病気・事故・災害、それらの縁を上手くくぐり抜けても老衰で死にます。

ところが、その死をいつどういう形で迎えるのか予測不能です。

にもかかわらず、私たちは日頃自らの「死」に関心を寄せることなく、あたかも自分だけは死なないかのような錯覚に陥っていたりします。

そのような私たちですが、年を重ねることによって、若い頃は特に意識もしなかったことが少しずつ思い通りにならなくなることによって、それが「当たり前ではなかった」ということに気がつく。

そのような体験を繰り返す中で、実は朝目が覚めることも、決して当たり前ではないことに思いが至るようになるのかもしれません。

このような意味で、私たちは亡き方がたの仏事を縁として、繰り返し仏さまのみ教えに耳を傾けることによって初めて、「南無阿弥陀仏」とお念仏を口にすることも決して当たり前のことではなく、いかに尊く仕合わせなことかに気付くことができるのだと思います。