平成29年4月法話 『あたりまえのことができる 仕合わせ』(後期)

「愛」の反対語をご存じですか。

「愛」の反対語は「無関心」だそうです。

初めて聞かれた方は「どうしてなの」と疑問をもたれるかもしれませんね。

普通に考えると、「愛」の対極にあるのは「憎」です。

しかしながら、「憎」よりも相手打ちのめすのは、実は「無関心」なのです。

その「無関心」の実態を実生活の中で具体的に考えてみてほしいと思います。

「無関心」がどれほど寂しく、辛く、やるせなく、みじめで、苦しく、不安で、苛立ち、腹立たしく人の感情を荒ませることかを…。

では「有り難い」の語源はどこからきているのでしょうか。

「有ること難し」で、私が今ここにあることが難しいことであり、大変なことであり、めったにない貴重なことであるというのが、「有り難い」の本来の意味です。

『法句経』には、「人として生を受くることは難く、やがて死すべきものの今いのちあるは有り難し」とあります。

「私のいのちは、数えきれないほどのご縁と、無数の先祖のいのちのバトンの受け渡しによって誕生したのだから、いのちの東都さに感謝しながら精一杯生きていきましょう」と、仏典は教えてくれます。

かねて、当たり前と思われるような一つひとつの出来事にも、感謝できる気持ちを表す言葉として、「ありがとう」と使われるようになったのでしょう。

今、私は当たり前のようにこの文章を誰かが読んでくださるものとして、パソコンのキーボードをたたいしています。

でも、このパソコンもいったいどれほどたくさんの人びとの英知により存在するのでしょうか。

パソコンの画面を見ながら、そんなことにも思いが巡ります。

私の文章を目にして下さるであろう、あなたとの出遇いも、単なる当たり前ではなく、まことに不思議なご縁によるものだと言えます。