仏法-普遍の真理

お釈迦さまの時代は、インドにさまざまな思想家がいました。

ある時のこと、お釈迦さまの弟子たちが、舎衛城に托鉢に行くと、そこではたくさんの思想家たちが盛んに議論をしていました。

論じている内容は、「この世界は、常住(無変化)であるか、無常(変化)であるか」「この世界は有限か、無限か」「身体と霊魂は、同一か、それぞれ別か」「人間は、死後も存在するか、存在しないか」といったことなど、現代の私たちも興味を持つような事柄でした。

思想家たちが、それらの論題について互いに自分の見解を立てて激しく言い争っているさまを見た弟子たちは、祇園精舎に帰ってくると、お釈迦さまにその光景をつぶさに報告しました。

お釈迦さまは、弟子たちが報告をする様子から、思想家たちの議論の内容に興味を感じているらしいことを察せられて、次のように言われました。

比丘(仏弟子)たちよ、彼らは盲目に等しく、理と非理を知らず、法と非法を知らないために、それらの問題を論じ争って、尽きる時がないのである。

比丘たちよ、むかし一人の王があり、家臣に命じて言った。

「この国の盲人たちをみんな集めて来い」

と。

家臣が王の命令にしたがって、多くの盲目の者を集めてくると、王はまた命じて言った。

「彼らに象を見せよ」

と。

家臣は、命令にしたがい、象をひいてきて盲目の者たちに手で象をなでさせた。

比丘たちよ、そこで王は盲目の者たちに尋ねた。

「象とはどんな生きものだったか、思い思いに言うがよい」

と。

すると、一人は「甕(かめ)のようでした」と言った。

彼は象の頭をなでたからである。

また一人は、「箕(み)のようでした」と言った。

彼は象の耳をさわったからである。

また、ある者は「犂(すき)のようでした」と言った。

彼は象の牙をさわったからである。

さらにある者は「轅(ながえ)のようでした」と言った。

彼は象の鼻をなでたからである。

彼らは、互いの感じるところを主張して言い争ったが、比丘たちの見た思想家たちの議論も、またそれと同じであると知るがよい。

そして、お釈迦さまは弟子たちのために、次の「偈」を説かれました。

かれら沙門、婆羅門たちは、おのれの見解を持して譲らず。

ただ一部のみを見るがゆえに、人びとは論じ争うてやまず。

世界を見渡すと、さまざまな国の人びとが、お釈迦さまの偈に説かれているように「おのれの見解を持して譲らず」自らの正義を声高に叫んでいます。

その内容は「自分の国さえよければ」「自分の住む地域さえよければ」「自分の家族さえよければ」究極的には「自分さえよければ」という考えに基づくものです。

まさに「ただ一部のみを見るがゆえに、(人びとは)論じ争うて」やむことがありません。

それは、お釈迦さまがおっしゃるように「理と非理を知らず、法と非法を知らない」からにほかなりません。

理とは道理、人の行うべき正しい道のこと、非理とはその道理に外れることです。

また、法とは真理のこと、非法とは真理に外れたあり方のことです。

結局、私たちはいつでも自分中心のあり方に終始し、その思いを離れることができません。

そのため、しばしば全体を見究めることなく一部を全体と見誤ってしまうのです。

現代においても様々な事柄を通してお釈迦さまの言葉に素直に頷かされるのは、お釈迦さまが普遍の真理を覚られ、道理に基づいて教えを説かれたからであり、だからこそ仏法はいつの時代においても人びとの心に響くのだと思われます。

甕(かめ)

箕(み)

犂(すき)

轅(ながえ)

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