さつまの真宗禁教史5月(前期)

江戸時代中期における一向宗徒探索の様態

-寛保元年(1741)―出水郷場合-

出水郷における一向宗徒の摘発―その1―

一向宗徒の摘発はまず明暦年間(1655~)から寛文年間(1672)にかけて行われました。

その後、禁止令もしばしば発布され、取締りの制度も確立しました。

しかし、幕末期に至るまでは大弾圧はなかったようで、ほとんど記録はありません。

そうした中で、出水市の税所家に襲蔵する文書は注目されます。

この文書は「出水に於ける一向宗禁制史料」と題して『日本庶民生活史料集成』第十八巻に公刊されています。

税所家は幕末に至るまで代々出水郷(出水市)を所轄する所三役

(暖・与頭・横目)をつとめましたが、この文書は、寛保元年(1741)のころ税所一郎左右衛門・石塚弥七兵衛・吉留政右衛門の三人が隠横目(隠密裏に一向宗徒を探索する役目)の任にあたった時の報告書です。

いまこの文書の一部をできるだけ忠実に意訳することによって、一向宗徒探索の実態や一向宗徒の動静を以下数回にわたり再現してみましょぅ。

口上書

出水は薩摩藩内の外城(とじょう)のうちで最も面積が広く、また肥後国と境を接しており、重要を場所ですので、地頭代を任じて万端取締りを厳しくするように、衆中(士)はもちろん、下々に至るまで心掛けてきました。

しかし去夏、宗門改衆が出水で詮議の結果、一向宗に心を寄せる者数百人が露顕しました。

わたくし共、宗門取締りにあたる者も驚いています。

早速出向いて委細を報告すべきでありますが、すでに御地頭様にはお聞及びで、心をいためられているご様子の由、ご尤ものことと存じます。