さつまの真宗禁教史4月(後期)

12 真宗禁止と一向一揆

前回は、真宗禁止政策が兵農分離政策(武士と農民の身分を明確に分離する政策)に利用されていたことを指摘しました。

さらに考えてみますと、兵農未分離(武士と農民が混在した)の社会にあっては、真宗教線の浸透は為政者にとって憂慮すべきものがありました。

そこには、真宗信仰を中心とした徒党と在地領主が結束して、一揆へと進む危険性が内在するからです。

それは北陸地方をはじめ、各地の一向一揆の形態を想起してもよいでしょう。

近世初期の薩摩藩においても、先の「真宗の嫌悪徒党を結ぶ門徒たち」の項(四回目発信)で指摘しましたように、その条件は充分に残存していたのです。

このようにして、薩摩藩の初期真宗禁制政策の基本的原因は、兵農未分離の政治体制にあって、一向一揆発生の要因を除去しようとした点にあったといえるでしょう。

それはまず、島津氏上層家臣団の一向宗徒が摘発されて、処分されていることがそのことをよく物語っています。

それに加えて、立ちおくれた兵農分離政策をおしすすめるために、真宗禁制政策を利用して、武士層の一向宗徒を摘発して、身分を百姓に降格して所替(強制移住)等の処分を行ったのでした。

つまり、真宗禁制政策は、薩摩藩の近世的身分制度の確立のための重要な政策の一つとして発足したのでした。