さつまの真宗禁教史4月(中期)

11 武士の一向宗徒が摘発された理由

それではなぜ武士の一向宗徒が明暦年間から寛文年間に集中し、名跡剥奪・屋敷没収・俸禄没収、さらには移百姓(所替=強制移住)といった処分がなされたのでしょうか。

まず幕府の宗教政策と相まって、薩摩藩においても、その制度と組織が確立したことが考えらます。

それに加えて特に摘発の対象が主に武士階層の一向宗徒であったことに注目したいと思います。

島津氏は天正五年(1577)に日向・大隅・薩摩の三カ国統一をほぼ完成し、続いて北九州の制覇にのりだしましたがそれはかなわず、天正十五年の秀吉の所領安堵により、支配地は薩摩・大隅・日向諸県郡に削減されました。

このような事態に立ち至った島津氏にとって、この三カ国以外より帰国した家臣団をどのように受け入れるかが緊要の課題でした。

その打解策として、まず武士と農民の区別を明確にして(兵農分離)、士分の人口を大幅に削減しなければなりませんでした。

しかしそれは充分に成功したとはいえず、薩摩藩は近世封建社会を通して、異常に多い士族をかかえることになりました。

それ故に、他国とことなり武士を城下に集中することなく地方に分散して、いわゆる外城制度(とじょうせいど)を布いて、半士半農の生活をさせたのでした。

しかし、武士人口削減の努力はなされたものと思います。

いまそれを具体的に実証できませんが、故原口虎雄は「私見によれば明暦~寛文のころまで外城の分合・新設を完了して、家臣団の所替(強制移住)を断行して、在地的・同族的を紐帯を断ちきり、近世的家臣団として再編成した。

もとの土地にとどまることを望む者には、近世的百姓化を徹底して門(かど)百姓におとした。

この兵農分離は宝永(1704~)から正徳(1711~)のころまで一部においておくれたようである」との見解を示しています。

それはまさに、武士階級の一向宗徒を摘発して、身分を百姓に移し、居住地の移動を集中的に断行した時期と軌を一にしています。

これは単なる偶然ではなく、真宗禁制政策が兵農分離に利用されたと考えるべきでしょう。