さつまの真宗禁教史4月(前期)

10 一向宗徒の摘発と兵農分離―身分を降格される士族たちー

上述しましたように一向宗禁止令が発布されて取締りの制度が確立すると、一向宗徒の摘発が頻発に行われました。

次に、その状況を伺ってみましょう。

一向宗徒の処分の初見は、寛永九年(1632)に日向高原(宮崎県西諸県郡)や、その近在の士族や百姓の門徒が摘発された事件(「県史」二)ですが、実態が明らかなのは「日州山之口地頭所旧記」)に記載されている一件です。

それによれば、日向山之口(宮崎県北諸県郡)の士族六人が、一向宗の咎によってそれぞれ次のような処分を受けています。

○ 竹下源左衛門

俸禄十六石五斗没収・士族剥奪の上、花ノ木村川内門に移百姓(流罪=強制移住)。

○ 前田小外記介

俸禄三石六斗没収・士族剥奪の上、冨吉村(宮崎市富吉)に移百姓。

○ 竹下右衛門

俸禄・屋敷没収。

○ 猿渡猪兵衛

俸禄四石四斗没収の上、栗野(鹿児島県湧水町)に移百姓。

○ 松山佐渡守

俸禄・屋敷没収・士族剥奪の上、高城桜木村(宮崎県北諸県郡)に移百姓。

○ 清右衛門

冨吉村(宮崎県冨吉)岩崎に移百姓。

このように、士分の一向宗徒がそれぞれ俸禄没収・名跡剥奪の上、身分を百姓に移され、さらに居住地の

強制移動(移百姓・流罪)といった処罰を受けたのでした。

こうして、寛永年間(1624~)に島津領北部で、武士の一向宗徒の摘発と処分が散発的に行われましたが、さらに宗体座(宗門取締りの役所)が設置された明暦元年(1655)・万治年間・寛文初年にかけて、大規模な武士の一向宗徒が摘発されて、同様な処分がありました。