鹿児島では、仏教語の「煩悩」という言葉を、好意を示す時に「お前には煩悩がある」という使い方をすることがあります。
親鸞聖人は「煩悩」という言葉を「身を煩わせ心を悩ます」と註釈しておられますが、この場合は「情愛」を示す言葉として用いられています。
そのため、その情愛の心がなくなると「もうお前には煩悩がない」という言い方をすることになります。
このような感情をさらに強く言うときには「もうお前には煩悩も菩薩もない」といったりします。
これは「あなたのことはもう完全に見捨てました」という意味で、「絶交」を言い渡す時に用います。
この場合の「菩薩」という言葉の意味は、菩薩の持つ慈悲の心、許す心を意味しています。
したがって、「煩悩も菩薩もない」とは、「あなたに対して情愛の心もなければ許す心もない」ということになる訳です。
いずれも、自らが深い愛情をかけていたのに、それを裏切るような行為をされたときに使います。
ところで、もともと凡夫である人間には、菩薩の心、慈悲心はありません。
人間にあるのは、裁き、比べ、見捨てる心です。
ですから、表題の「裁かない 比べない 見捨てない」という心のありようは、菩薩の心、仏の心だといえます。
それは、私たち念仏者にとっては阿弥陀如来の慈悲心です。
親鸞聖人のご和讃に
「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし 摂取して捨てざれば 阿弥陀となづけたてまつる」
とあります。
阿弥陀如来は、「阿弥陀の浄土に生まれたいと願い、念仏する衆生を決して見捨てることがない」ということです。
私は、浄土に生まれたいと願いながら、その仏の心に反するような行為を繰り返し、迷いに満ちた心を持っています。
それでも、阿弥陀如来はそのような私を、決して見捨てることがありません。
阿弥陀という仏の名乗りは、まさにその仏意を表しているのだといえます。
「同朋」とは兄弟、同じ仲間という意味です。
念仏者においては、共に浄土に生まれたいと願う人々のことを表します。
仏教は、仏、法、僧を三宝といいます。
仏さまと、その教えと、その教えに集う人々です。
「同朋」は、三宝の中の僧にあたりますから、仏と法と同じ宝です。
念仏の道を歩む私の周りには、宝の一つ、たくさんの「同朋」の方々がおられます。
この人びとは、如来さまの側から言えば、すべてが「必ず救う」とよびかけられる救いの対象です。
共に同じ道を歩む仲間(「同朋」)として、大事にしなければならないと思っています。