「聖人は御同朋・御同行とこそかしずきて仰せられけり」
これは、今日の本願寺教団の礎を築き、「中興の祖」と仰がれる本願寺第八世・蓮如上人が、親鸞聖人の言行の中から学びとられた大切なこととして『御文章』の一帖目第一通において挙げておられることです。
この言葉は、「親鸞聖人はご門徒の方々に対して御同朋御同行と、おつかえしているかのように丁寧におっしゃいましたと」いう意味ですが、「同朋」というのは一般には仲間とか友人という意味で、仏教教団においては師を同じくし、師の教えを共に聞き、その教えを生活の拠りどころとして生きる人のことを言います。
また「同行」というのは、一般には連れ立っていくことで、仏教教団においては心を同じくしてともに仏道を修める人びとを言います。
したがって、同朋・同行いずれも、どの仏教教団でも使われることがある言葉です。
ところが、親鸞聖人は共に「御」の字をつけて、「御同朋・御同行」とおっしゃっておられます。
日頃、御恩とか御縁という言葉を口にすることがありますが、この場合、ただ縁とか恩とかでなく、そこに「御」の一字を冠して語る時の感情には、それが向けられる相手から頂いた、何らかの深い実感が込められているように窺えます。
そうすると、親鸞聖人は「御同朋・御同行」という言葉で、いったいどのようなことを頷いておられたのでしょうか。
実は、冒頭述べた『御文章』の中で、蓮如上人はもう一つ大切なことを挙げておられます。
それは、
「親鸞は弟子一人も持たずそうろう」
という言葉です。
これは『歎異抄』によっても伝えられているので、よく知られている言葉ですが、親鸞聖人は漠然とおっしゃったのではありません。
明確に「わが弟子・ひとの弟子」という争いに対して述べられたものだからです。
私たちの日常の社会は、しばしばお互いの主張がぶつかり合って争いが生じます。
それが大きくなったのが国家間の争いということになりますが、これに対して念仏の教えのもとに集う人びとになったということは、あれこれ言い争いながら生きる日々のあり方から解放されて、同じ道を歩む仲間同士の集まりを生きることになったということです。
ところが、そこでまた「わが弟子ひとの弟子」という、本来あり得ない争論が起きていることに対して、その過ちを深く悲しまれる中からおっしゃったのがこの言葉です。
本来、念仏者の集まりとは、本当に信頼し合っている仲間が集い、心から安らぐことのできる場所であるはずです。
ところが、そうであるはずの念仏者の集まりにおいて、いつの間にか誰の弟子かということが声高に問われるようになりました。
その時、親鸞聖人は自らをその場において自身に問いかけたとき、「弟子一人も持たず」という言葉を、言い争っている人びとに対してだけでなく、自らに対しても言わずにはおれなかったのだと思います。
なぜかというと、ともすれば私たちは教えを聞き続ける内に、やはり「わがはからいにて人に念仏を申させる」といったような思いが、無意識のうちにわき起こってくるからです。
おそらく、親鸞聖人ご自身も、自分の思いを超えて、たくさんの同朋の方がたが周囲に集まってくださればくださるほど、気がつけばいつの間に人びとの師匠になってしまっていることに気づかれたのだと思われます。
その気付きが、はっきりと「親鸞聖人は弟子一人も持たず」という、自らの立場を再確認する言葉になって示されたのだといえます。
このような意味で、親鸞聖人という方は、生涯にわたって、自分が師匠になることとの内なる戦いをしておられたのではないかと思われます。
なぜなら、自らを師匠として位置付けてしまった時、教えから離れていってしまうのだということを自覚しておられたからで、常にそのことを見失うまいとしておられたように窺えます。
さらに、「弟子一人も持たず」という言葉の根底には、「弟子一人も持てず」という自覚と、弟子を一人も持つ必要がない世界が明らかになっていたのではないかと思われます。
それはどのような世界かというと、『歎異抄』に「ひとへに弥陀の御もよおしにあづかりて念仏もうしそうろうひと」と語られるように、阿弥陀仏の願いのはたらきによって、必ず仏となるべき身に定まった人びとと共に生きていくという世界です。
そうすると、親鸞聖人が共に念仏の教えに生きる人びとを「御」の字をつけて「御同朋・御同行」と呼びかけられたのは、自分の周囲に集う人びとのことを「この方がたは、阿弥陀仏の本願のはたらきによって、必ず仏となっていかれる」未来仏として心の中で拝んでおられたからだと思われます。
蓮如上人が「かしづきて」と言い表されたのも、おそらくそのような親鸞聖人のお心をくみとられたからに相違ありません。
私たちは、自らを「正しい行いをしている」と位置付けた時には、しばしば思いに添わない仲間を、裁いたり、比べたり、見捨てたりすることがあります。
親鸞聖人が、人の師となることを常に自省し、弟子一人も持たずとおっしゃったことと、念仏の仲間に「御同朋・御同行」と敬意を込めて語りかけられたことの意味を味わうと共に、そのような生き方を求め続けたいと思います。