平成29年6月法話 『御同朋(おんどうぼう) 裁かない 比べない 見捨てない』(前期)

あるお寺の掲示板にこのような言葉がありました。

「人間みな裁判官 他人は有罪 自分は無罪」

自分中心で物事を見て、自分の都合で善い・悪いの判断してしまう私の姿を言い当てている言葉だなと思いました。

浄土真宗本願寺派(西本願寺)の活動の目標として「御同朋の社会をめざして(実践運動)」というものがあるのですが、その総合基本計画の中にこのような文章があります。

『仏説無量寿経』には、あらゆる世界に生きるすべてのいのちあるものが、阿弥陀さまのはたらきによって分け隔てなく救われていくことが示されています。

生きとし生けるものすべてを等しくいつくしむ大慈悲が阿弥陀さまの救いのはたらきです。

その阿弥陀さまの救いをよりどころとして、宗祖親鸞聖人は、混迷した世の中にあって、ともにお念仏を喜ぶ仲間を「とも同朋」「御同行」と呼び、苦悩を抱える人々とともに生き抜かれました。

私たちの先人はそのお心を受け、「御同朋・御同行」と互いに敬愛し、み教えをまもり広めていこうと努めてこられました。

阿弥陀さまの慈悲に包まれ、智慧に照らされている者どうしであることを自覚しつつ、人々と苦悩をともにされた親鸞聖人のお姿を鑑として、互いに支え合って、苦しみや悲しみの世界を生き抜いていくことこそが、私たち念仏者のあり方といえます。

自分の物差しで、他を比べ、善し悪しを判断し、時には見捨ててしまうこともある凡愚な私。

あらゆる存在を分け隔てることなく、摂め(おさめ)取って捨てないとはたらき続けてくださっている阿弥陀さまの救い。

阿弥陀さまの救いをよりどころとして、ともにお念仏を喜ぶ人々は、生まれや育ち、上下関係など関係なく一緒の仲間「御同朋」と呼ばれた親鸞聖人。

ご縁あって、浄土真宗のみ教えに遇わせていただいた私は、「裁かない・比べない・見捨てない」を完全にはできないにしても、できる限り努めていくことが大切なのかと思っています。