平成29年5月法話 『仏縁 無数のいのちにつながれし』(後期)

日常の暮らしの中で、病気にかからなければ、怪我をしなければ、その立場に自分が立たされなければ気付くことができない、そんな気持ちや感覚に、ふと気付かされることが度々あります。

私がよく聞く歌でこのような歌詞があります。

「熱が出たりすると 気付くんだ 僕には体があるって事」

「鼻が詰まったりすると 解るんだ 今まで呼吸をしていた事」

「君の存在だって 何度も確かめはするけど」

「本当の大事さは 居なくなってから知るんだ」

当たり前と言ってしまえばそれまでのことですが、この歌詞にあるように、息をする・呼吸をする行為一つにしても、毎日意識している方はどれくらいいるでしょうか。

気にも留めないことはたくさんありますが、その大切さ・重要さになかなか気づくことができない、有難いと思うことができないのが私たちの日暮しです。

私事ですが、10年ほど前に左腕筋肉断裂という大怪我をしました。

私の利き腕は右ですので、怪我をした当初、そんなに困ることはないだろうと思っていたのですが、そう簡単ではありませんでした。

まず、朝起きて顔を洗うことから一苦労。

着替える時、ボタンを留めるにも、支える手が使えません。

食事の時、お箸を持ち、もう片方の手でお椀を持つことができません。

仕事でパソコンを使うとき、書き物をする時・・・

今まで当たり前のようにしていたことが、当たり前ではなくなり非常に苦労をしました。

一人暮らしをしていた私は、すべて自分でしなければならないため、普段の倍以上の時間と労力が必要でした。

そんな不自由に感じることが多い中、やはり一番感じたことは、親の愛情であり有難さでした。

子どもの時に病気や怪我をした時、両親は私が思う(考える)よりも先に世話をしてくれたことが思い返されました。

顔や頭をタオルで拭いてくれ、食事を口に運んでくれ、着替えのボタンも留めてくれました。

次に、友人や職場の方々などの身近にいる存在でした。

自分一人で頑張っていたと思っていた事柄や仕事など、多くの人の支えや手助けがあって物事が進んでいくということに、怪我をしてから度々気付かされました。

私たち仏教徒は常々、手を合わせて「合掌」をします。

何故手を合わせるのでしょうか。

東南アジアのある国では、すれ違うあいさつの際にも合掌をします。

これは、仏様と一体になることや仏様への心を示すものであると同時に、相手に対して深い尊敬の心を表しているのだとお聞かせいただいたことがあります。

右手と左手というのは同じ手でありながら、それぞれが違う動きをします。

けれども、お互いを助け合っている。

右手がお箸を持てば左手はお茶碗を持つ。

右手がペンを持てば左手は紙を押さえる。

右手を私とすれば左手は相手となる。

仏教では左手が私なら、右手が仏様となり、手を合わせるという行為そのものが、仏様と自分とが一つになることをあらわしています。

自分と対する全てのことが一つであるということです。

最近はご飯を食べる前に手を合わせる光景が少なくなっているように感じますが、私が小さい頃は学校でも手を合わせて「いただきます」とみんなで言っていました。

食事をいただく・命をいただくということは、食材の一つ一つの命と、私の口に届くまでに関わった全ての営みが自分の命と繋がっていく。

相手と自分とが一つになるというところから始まります。

仏さまの心で見るのならば、この世のすべての命や行為は、姿形は違っても、それぞれに役割があり、違った生き方をしています。

決して別々のものではなく皆同じ命。

すべての命が一つになる。

すべてが自分と一つになる。

ともすると、私の目からは命とすら見分けることのできない、小さな命であったとしても、つながっていることの表れでもあります。

つまり、仏縁をいただくということは、私の目ではみることのできない、無数のいのち、たくさんの「命のつながり」を知り、いっけん自分とは全く関係ないことであったとしても繋がっていたことを知る、そうして私が「今」を生かされていると気付くことです。

大切な何かが、なくなってから、いなくなってから気付くことの多い私たちの生き方かもしれません、しかし仏法をお聞かせいただくとき、一日一日の出会い・出来事が尊いとまではいかなくとも、何か大切なことであるかもしれないと意識させていただけるのではないでしょうか。

仏教詩人の坂村真民(さかむら しんみん)さんの詩をご紹介して終わりとさせていただきます。

両手を合わせる、両手でにぎる、両手で支える、両手で受ける、両手の愛、

両手の情、両手合わしたら喧嘩もできまい、両手に持ったらこわれもしまい、

一切衆生を両手に抱け (坂村真民『両手の詩』)

南無阿弥陀仏