平成29年5月法話 『仏縁 無数のいのちにつながれし』(中期)

私たちは、それぞれ「人」として生まれ「人」としてこの社会を生きていますが、そのあり方は「人間」という言葉で言い表されるように、常にまわりの人とつながりを持ち、何かしら関わり合いながら生きています。

しかも、それは今に始まったことではなく、それこそ人類の歴史のはじめから今日に至るまでといっても過言ではなく、いつの時にあっても人はお互いにつながりを求め合いながら生きてきました。

ところが、そのように常につながりを求める一方で、人はしばしば互いに分裂したり対立したりして、争い合うことを今日まで延々と繰り返してきました。

おそらく、一人一人と面と向かい合って尋ねれば、誰もが「いつの時も喜びや悲しみを共にしながら、みんなとつながって生き合いたい」と答えるに違いないと思うのですが、人間全体の営みは多くの場合「平和」よりも「戦争」という悲惨なあり方に陥ってきました。

これを踏まえてドイツの哲学者のカントは、「平和というのは非常時だ」と述べています。

その大半が戦争を知らない世代で構成されている日本人にとって、「戦争こそ非常時だ」と言われると素直にうなずくことができると思われるのですが、今日のような「平和」な状態が「非常時だ」と言われても、容易には理解し難いのではないでしょうか。

けれども、カントによれば、戦争状態は非常時ではなく、むしろ平和であることの方が非常時、つまり「常に非ざる時」だというのです。

確かに、歴史を繙けば、いつの時代にあっても人類はひたすら戦争に明け暮れてきたというほかありません。

20世紀は「戦争の世紀」と言われ、第一次世界大戦(1914年 – 1918年)と第二次世界大戦(1939年 – 1945年)と呼ばれる2つの世界大戦が勃発しました。

それまでの戦争の多くは局地的なものでしたが、この2つの戦争は「世界大戦」と形容されるように、戦場は広範囲にわたり、多くの国々を巻き込んで甚大な被害をもたらしました。

2つの大戦の後は「このような悲惨な戦争を繰り返さないための枠組み」として、第一次世界大戦後は国際連盟、第二次世界大戦後は国際連合が組織されましたが、その活動目的の一つである国際平和の維持は理想を実現できないばかりか、困難を極めているといっても過言ではありません。

第二次世界大戦後の世界には、アメリカ合衆国とソビエト連邦の2つの超大国が並び立ち、その直接対決による第三次世界大戦勃発の可能性が危惧されていました。

しかし、2つの超大国は核兵器によって武装していたため、もし戦争を始めれば核戦争による世界の終焉を招きかねないことから、世界の各地で代理戦争を行うようになりました。

そのことがまた、世界の各地で戦火が消えないことの原因となったと言えます。

大国間同士の冷戦による緊張状態が続いた後、1991年にソ連が崩壊したため第三次世界大戦勃発の危機は回避されることになったと思われました。

ところが、冷戦終結後に噴出したボスニア紛争・コソボ紛争等の民族問題や、アルカイダやイスラム国などに見られるイスラム原理主義の出現、中華人民共和国の急速な軍拡(中国脅威論)、ソ連の後継国家であるロシア連邦の大国への復活志向とアメリカとの対立(新冷戦)、イラン・朝鮮民主主義人民共和国の核開発問題、シリア内戦、中東和平問題など、国際情勢はむしろ混沌とした様相を呈しています。

冒頭述べたように、人は周りの人とつながることによって、初めて人間として生きていくということが始まります。

それは裏返していうと、人間はつながりをなくし「孤独」になるとき、人間でなくなってしまうということです。

「孤独」とは、詳細にいうと「孤」は孤立ということ、「独」は独居ということで、周囲に人がいても、誰にも理解されていない、誰からも眼を向けてもらえていないということです。

今ここで言う「人間でなくなる」とは、自分というものが本当に空しくなり、自分自身の生き方を見失ってしまうということです。

私たちは、生きて行く中で、縁にふれ折りにふれいろいろなことに出会います。

嬉しいことや楽しいこともあれば、予期しない形で辛いことや苦しいこと、悲しいことがふりかかってきたりします。

そのような時に、周りの人と本当に喜び分かち合ったり、悲しみを共にしたりすることができれば、決して自分自身を見失うことなく、いのちの事実を本当に生きることができるのだと思います。

まさに、「無数のいのちとつながり合って生きてこそ人間」です。

その一方、そのことを見失う時に、人は悲惨な戦争という過ちを犯してしまうのだといえます。

仏縁…、仏さまのみ教えを聞く機会を頂くとき、私たちは無数のいのちとのつながれていることに目覚め、その事実を積極的に生きることができるのではないでしょうか。