浄土真宗では悪人が救われるというよりも、この私の罪悪に気付かされ、どれほどのわが身であったとしても見捨てぬ阿弥陀様のおはたらきを慶ばせていただくみ教えです。
ここでいう罪悪とは、煩悩に支配され、欲や怒りを起こし、自分の力では悟りへ至る事が出来ず、迷いを繰り返していくことです。
阿弥陀様は法蔵という菩薩の位の時に、私たちの姿をご覧になられ、このものたちをすべて救うためにはどうしたらいいだろうか五劫という時間悩まれました。
そして48の願いを建てられ、兆歳永劫(ちょうさいようこう)というまた長い時間をかけて御修行をされ阿弥陀という仏になられました。
私たちの方には「これをしなければ救いませんよ」というような条件を一切付けず、阿弥陀様ご自身がご苦労してくださったのです。
なぜ阿弥陀様は私たちに条件を付けられなかったのでしょうか。
それは、もし一つでも条件を付けられたならば、救いを達成することができない私の罪悪の姿を見抜かれたからではないでしょうか。
親鸞聖人が常々このようにおっしゃっていたと歎異抄(たんにしょう)に書かれております。
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ。」と。
阿弥陀の五劫のご苦労は、他の誰でもなく親鸞一人のためのものであった。
阿弥陀様にこれほどのご苦労をおかけしなければならない程、罪悪を抱えた我が身であったのかと受け止められ、それでも見捨はしないとはたらく阿弥陀様の深いお慈悲を慶ばれたのでありました。
善導大師が「経教はこれを喩ふるにこれ鏡のごとし。しばしば読みしばしば尋(たず)ぬれば、智慧を開発(かいほつ)す。」とお経は鏡のようだとおっしゃいました。
鏡は光を反射させ、その光によって鏡の前に立つ人の姿が映し出しますが、お経が照らし出すのは尽十方(ありとあらゆる所)に届いている阿弥陀様のお慈悲の光です。
当時の鏡は、銅鏡でありました。
そのため磨かないとすぐに曇ってしまい光を反射せず、何も映し出してはくれません。
いつも磨いてこそ光を綺麗に反射させ、鏡の前に立つ者の姿をそのまま映し出してくれます。
お経も何度も読み、何度も尋(たず)ねてゆけば阿弥陀様のお慈悲の光は強さを増し、前に立つ人の姿をより明確に映し出してくださいます。
お経の鏡に映る姿は、紛れもなく真実に背き、欲や怒りを起こし迷いを深め阿弥陀様にご迷惑をかけ続ける悪人である私の姿であります。
その罪悪を抱えたものを見捨てず阿弥陀様はお救い下さいます。
これを悪人正機といわれます。
そのお心を親鸞聖人は涅槃経(ねはんぎょう)の七子の例えを用いて顕されています。
「たとへば一人にして七子あらん。この七子のなかに一子病に遇えば、父母の心平等ならざるにあらざれども、しかるに病子において心すなはちひとへに重きがごとし。」
七人の子どもがいて、すべて大切な子どもであるけれども、その中に一人病気の子どもがいたら、父母は病気の子を一番に心配し気にかけます。
この例えのように阿弥陀様はすべてのものを救うとはたらいてくださいます。
そのためには自ずと、迷い苦悩している悪人に重きを置いてくださるのでしょう。
その悪人を他の誰でもない私の事だといただき、わが身を顧みながらお念仏申させていただくばかりです。